第2次世界大戦中、ポーランドで迫害に遭ったユダヤ人の写真(写真・Jakub Porzycki/NurPhoto/共同通信イメージズ)

今、世界を揺るがしている戦争は2つの場所、ウクライナとガザで起こっている。

ウクライナとガザ、地図上で見ると、とても離れた地域である。しかも、スラブ人とアラブ人、正教会とイスラム教徒、ユダヤ教徒、いずれをとっても共通点が見つからない。

あえていえば、アメリカとロシアが深くからんでいることだけである。ただ、地政学的東西対決のフロントとして、2つの地域が深く結びついていることはわかる。

しかし、過去の歴史をさかのぼると意外なことに気づく。それは、これらの地域は同じオスマン帝国の中にあったことである。かつてオスマン帝国は、黒海の北部(ウクライナ)と、中東地域(ガザ)を領土に組み込んでいた。つまり、両地域とも同じ帝国の版図の中にあったのである。

その2つの地域が、今戦争に陥っているのは偶然ではない。それはこの巨大な帝国、オスマン帝国の崩壊から、20世紀の歴史、そして21世紀の歴史の変動が始まり、いまなおその終着点を求めてさまよっているからである。

19世紀4大帝国のせめぎあい

19世紀までのヨーロッパの諸国家の布置を見ると、オーストリア帝国、プロイセン帝国、ロシア帝国、そしてオスマン帝国の四大勢力がしのぎを削っていた。そこに、フランスとイギリスといった国民国家の力が増大し、その力が日増しに強くなっていった。

その結果が、ナポレオンによるフランスの拡大と各地で起きた国民国家を目指す民族独立運動であった。ウィーン体制といわれる1815年以降の体制は、国民国家へと移行していく流れの中で締結された体制であった。

その結果、各地で民族独立運動が盛り上がる。イタリア、ドイツ、ポーランドなどで国民国家の統一を求める青年運動がそれだ。それは、やがてオーストリア帝国やドイツ帝国、ロシア帝国、そしてオスマン帝国まで波及し、世界を揺るがす大変動を生み出す。その現れの1つが、1853年から始まるクリミア戦争であった。

この戦争は、オスマン帝国の解体を意味する戦争であり、かつその領地をどの国が分け合うかという「ライオンの分け前」の戦いであった。その結果、これらの地域をフランスとイギリスという国民国家が勝ち取ったことで、オスマン帝国のみならず、ロシア帝国、オーストリア帝国、プロイセン帝国の力は弱まっていく。

ロシアでは農奴解放、ウクライナの民族主義の勃興、ドイツの統一、オーストリアとハンガリーの同君連合の成立である。

東欧の帝国は民族独立問題を受けることでさまざまな改革を行ったが、結局解決することはできなかった。そうして、各地で民族独立運動が起きた。

そこで大きな影響を受けたのが、マイノリティーの民族だった。帝国の崩壊は、マイノリティー民族への弾圧を生み出した。ロシアではユダヤ人に対するポグロム(ユダヤ人に対する集団暴力)が起こる。

ポグロムを逃れたユダヤ人は、プロイセンやオーストリアなどに移住していったが、500万以上のユダヤ人が住んでいたロシア帝国、とりわけウクライナのユダヤ人社会の崩壊は、西欧社会に大きな社会的危機をもたらす。

この危機の中で、社会主義運動に参加するユダヤ人も大勢生まれた。トロツキー、ルクセンブルク、ジノヴィエフ、マルトフなどロシア革命で大活躍をする面々は、こうした流れを受けたものであった。ロシア革命の原動力の1つがロシア帝国のポグロムに対する抵抗であったともいえる。

一方、オーストリア帝国やドイツ帝国へ逃げのびたユダヤ人は、オーストリアで難民問題を引き起こす。ポグロムによる西欧へのユダヤ人の移動は、西欧人に反ユダヤ主義をもたらす。これがオーストリアのユダヤ人ヘルツルによる、シオニスト会議(1897年)を生み出す。

ポグロムとユダヤ人問題

ユダヤ人、とりわけウクライナ地域から来たユダヤ人を最終的にどこに落ち着かせるかという問題が、シオニズム問題であるが、そもそもユダヤ人に対して、長い間寛容ではなかった西欧では、東欧に比べユダヤ人の数はそれほど多くはなかった。

ユダヤ人の多くは、イスラム圏と正教会圏にそれぞれセファラードとアシュケナージとして暮らしていた。

急に増えてきたユダヤ人に対する西欧側の批判は、西欧社会の重要問題となる。とりわけそれに動いたのがイギリスであった。

イギリスは、ユダヤ人たちの移民先を探す。イギリスとフランスは、オスマン帝国が崩壊する中、中東地域に触手を伸ばしていた。こうして第1次大戦が始まり、オスマン帝国は完全に崩壊し、その支配下にあった中東地域はイギリス・フランスの植民地となる。イギリスは、その中でパレスチナ地域をユダヤ人移民のための基地とすることを決める。

「バルフォア宣言」が1917年に出されるが、そこで初めてユダヤ人の国がパレスチナで建設されることが決まる。もちろん、そこに住むパレスチナ人は第1次大戦後の国民国家成立のための努力を行っていた。

しかし、シリアやレバノン、ヨルダンの独立国家案は認められ、パレスチナだけが民族国家独立の機会を永遠に奪われてしまうのである。もちろん、中東のどの民族に対しても、欧米列強が主導したヴェルサイユ会議では、独立国家の存在を認めることはなかった。その独立は第2次世界大戦後を待つしかなかったのであるが、パレスチナにその機会が来ることはなかった。

パレスチナへのユダヤ人の移民は、最初から国家形成ありきであったわけではない。圧倒的な人口差を持つ地域での国家形成はありえない。イギリス政府の後押しだけでなく、イギリスのロスチャイルド、モンテフィオーレなどのユダヤ系の資本家の資金供出、アメリカのユダヤ系資本の資金供出によって、まずは土地を購入し、そこにユダヤ人入植地をつくるという形で初めは進められた。

これを加速したのが、1930年代のナチスによるユダヤ人排斥運動である。これによってパレスチナへのヨーロッパからの移民はどんどん増えていく。パレスチナの住民は次第に僻地に追いやられ、それに対する抵抗運動が始まる。

1939年にはユダヤ人人口はすでに30%になっていたという。「軒を貸して母屋を取られる」という言葉があるが、まさに増大するユダヤ人の人口と西欧による後押しは、パレスチナの人々を周辺に追いやる。

第2次世界大戦以後、ヨーロッパから絶望したユダヤ人の大量入植が始まる。荒れ果てたドイツ、ポーランド、ウクライナ、ロシアからの入植者が新たな人口を形成していく。パレスチナ人は、戦前に抵抗運動を行っていたが、本格的な抵抗運動は4回にわたる中東戦争であった。

しかし、そのたびに西欧社会の支援を受けるイスラエルは確固たる領土を確保し、パレスチナ人は、イスラエルの外の国に移動するか、イスラエルの中のガザ、そしてヨルダン川西岸にほそぼそと生きるしかなくなる。こうして幽閉された大地に暮らすガザが生まれたのだ。

ロシア領土となったウクライナのユダヤ人問題が、イスラエルを生み出し、それが今、ガザでパレスチナ人と戦っているというわけである。(以上、ジャック・アタリ『ユダヤ人、世界と貨幣』的場昭弘訳、作品社、2015年参照)

帝国の崩壊と終わりのない紛争

19世紀からの歴史を見ると、ウクライナの問題とガザ問題は共通項をもっていることに気づく。

それは、オスマン帝国の崩壊、そしてオーストリア、ロシア、ドイツといった中東から東欧にかけて支配していた大帝国が、国民国家に取って代わったことによって生まれたマジョリティーの民族とマイノリティーの民族の闘争という問題である。

この問題は、ユダヤ人やパレスチナ人だけの問題ではない。これらの帝国には、民族や言語も違う人々が長い間共存してきたからだ。西欧から見ると、民族統一と言語統一による国民国家は当然のことのように見えるが、これらの混淆した地域でそれを行うことは至難の業といってもよい。

帝国という枠の中で、言語も民族もあまり意識せず生きていた時代は、ある意味幸福であったといえる。しかし、そこに民族統一と国民国家への運動が生まれる。そうなると、主たる民族と弱小民族との区分けが生まれ、弱小民族は弾圧を受ける。

ポーランド独立運動やロシアの独立運動は、ウクライナの民族を弾圧し、ウクライナの独立運動はユダヤ人や、ルテニア人、モルダヴィア人、ベッサラビア人、タタール人などへの弾圧へと進む。こうして迫害が始まる。「民族浄化」という概念は、まさにこうした民族運動から始まっていった。

こうしてウクライナのユダヤ人は追放され、パレスチナへ至り、イスラエルという国民国家をつくることになる。しかし、今度はそこで、ユダヤ人ではない民族を弾圧することになる。まさに皮肉というしかない。しかも、そのパレスチナも民族独立と国民国家形成を求めて、イスラエルのユダヤ民族と真っ向から対立しているというのだ。

お互いに単一民族による国民国家実現という、19世紀の国民国家の幻想の中でうごめいているわけだ。もちろんアメリカのような多民族国家はあるが、主たる民族と人種による差別と弾圧は後を絶たない。それは人々が、帝国にあったような、ある意味無関心、ある意味寛容な態度を持たないからである。個々人の独立が、かえって弱い民族や人種を差別していくのである。

その意味で、わずかな時期であったが、19世紀末のウィーンはこうした帝国のある種の理想型であったかもしれない。そこで花開いたユダヤ人の社会の文化は、西欧の歴史に燦然と輝いているからだ。

世に国際都市というものがあれば、あの時代のウィーンだったのかもしれない。オーストリア人の中でユダヤ人が少数であったことが、寛容の中で華やかな世紀末文化を生み出したのだ。しかし、このウィーンもポグロムから徐々に変わる。ユダヤ人の数が増えたことで、アンチセミティズム(ユダヤ人蔑視)の力が増したのだ。

国民国家として均一化されれば、人は他と違うものに脅威を感じる。そこに差別が生まれる。これを超えるには、多民族を包括する大きな帝国が必要であったのだ。すでに、オーストリア帝国は多民族国家であったが、次第に国民国家の勢いに潰されかけていたともいえる。

未来の国家とは

こうした帝国に代わる理想的モデルとして構想されたのが、国民国家ではなく、連邦国家であった。民族集団の集まりではなく、インターナショナルな集まりである連邦国家である。

しかし、あくまでもそれは理想である。ソ連、アメリカ、EUはそうした連邦を目指したものであったが、どこかで狂ってしまった。比較的うまくいっているのは、スイスであろうか。

スイスはConfoederatio Helveticaともいう。ヨーロッパでCHと書いた車があったら、それはスイスの車だ。「ヘルベティア連邦国家」だ。スイスは歴史も文化も違う地域を19世紀に人口的にまとめて作った国である。

ドイツ語でEidgenossenschaftという言い方もある。直訳すると「誓いでまとまった共同体」という意味である。現実はともあれ、未来社会はかくあるべきなのだろうか。

(的場 昭弘 : 哲学者、経済学者)