ルーキーイヤーで迎えた選手権。県予選でアンカーのコツを掴んでいた本山は、本大会が開幕する頃には、東福岡に欠かせない主軸となっていた。
 
 1回戦で激突したのが、2年生の天才司令塔、中村俊輔を擁する桐光学園。抽選会で対戦が決まってから、本山にはひとつのタスクが与えられていた。思いもよらない、マンマークである。
 
「俊さんがすごい選手だってのはなんとなく知ってたけど、そこまで詳しいわけじゃなかった。で、試合ではマンマークで付けと志波先生に言われて、いいか、どこまでも付いていけと。めっちゃ走りましたよ、あの試合は。左を切って右に追い込んでいけばいいとか、右足でほとんどプレーしないとか、事前のスカウティングはそんな感じだったけど、とんでもない話で。

さっと僕が左を切るじゃないですか。前にも味方がいるから大丈夫だろうって安心してたら、あっさり逆を取られて、『あー! それだけはやめてー!』って(笑)。サイドに流れても簡単に切り返して右足でセンタリングとか上げてたし、ぜんぜんスカウティングと違うんですけど!って。ただそう思いながらも、すんげー楽しかったんですよ。巧いですから、俊さんは。それを目の前で見れて本当に面白かった。まあ、自分が勝利に貢献できたかどうかは怪しいんですけどね」

 
 2回戦で作陽を、3回戦で近大付を破り、準々決勝では前年度覇者の市立船橋をPK戦の末に下した。筆者はこの試合のマン・オブ・ザ・マッチに本山を選んでいる。式田高義や砂川誠、城定信次ら高校サッカー界のスターを擁する市船の中盤と、攻守両面で堂々と渡り合っていたからだ。しかし続く準決勝で静岡学園の後塵を拝し、ヒガシの快進撃は終わった。
 
「なんだろ、毎試合毎試合、志波先生が僕のやることを明確にしてくれるんで、すごくやりやすかったです。自分は自分で、こうサポートしたほうが前の選手が助かるんじゃないかといろいろ考えたり、探ったりしながらやってましたね。あんな風に頭を悩ませながらプレーしたのは、後にも先にもあの大会だけかもしれない。基本が大事なんだって再確認できたんです。どうすればゲームが流れていくのかが、ボランチをやってみてよく分かった。あれは本当に大きな経験だったし、のちのちの自分のプレーにもすごく活かされましたね。

 いちばん覚えてるのは……やっぱり市船戦かな。最後のPKキッカーが僕で、決めて勝ったのをよく覚えてます。静学に負けたのってPK戦でしたっけ? これがあんまり思い出せないんですよねぇ」
 高校時代、本山には志波先生と並ぶ恩師がいた。かつて八幡製鉄サッカー部で監督を務め、全国有数の強豪に鍛え上げた人物、寺西忠成さんだ。この時、60代後半。すでに第一線の指導から退き、週に1〜2回だけやってきては、東福岡の選手たちに極意を伝授していた。
 
 とりわけ本山は、才能に惚れ込まれたのか、つねに傍に置かれて指導を受けたという。八幡製鉄サッカー部は北九州市を本拠地とし、九州サッカーの礎を築いた伝説のチーム。北九州がサッカーどころなのもそこに起源があり、寺西さんは自身も暮らす北九州の出身である本山を、ことのほか気にかけていたのだ。本人も心酔しきっていたと語る。
 
「すんごい細かい局面の話とか、なにを質問してもすぐに明確な答をしてくれるんです。1ボランチなら1対2になった時にどうやって守るか、どうやって遅らせるか。個と個の駆け引きのところとかもたくさん教えてもらった。誰かが、寺西さんに『パスが通らない』って言ったんですよ。したら、『パスなんてボール1個あれば通るんだよ』と言って、ふたつのコーンのすごい狭い間をこれでもかってくらい通す練習をさせられた。シンプルだけど、確実に身に付く練習でしたね。