だが、県内では絶対に負けられないという強い自負が、彼らの根底にあった。その潜在的な意識と重圧が、どんな試合でも打ち勝つ、破壊的な攻撃力を誇るチームへと変貌させていったのだ。
 
「公式戦になった時の切り替えはしっかりできてましたね。強かった。周囲の目がすごくてプレッシャーは相当なもの。その中で絶対に結果を出すぞ、こんなのに屈しないぞっていう想いを共有していた。で、ヒガシのいいところなんですけど、昔からあまり上下関係が厳しくないんですよ。ざっくばらんに先輩後輩で話をよくしたし、試合中もしょっちゅう意見交換をしてましたから。勝ちパターンみたいなのも掴んでいったし、ちょっとやそっとじゃ負ける気がしなかったですね」
 酷暑の京都開催となったインターハイは、決勝で帝京を相手に4−3の逆転勝ちを収めた。続く全日本ユースも接戦をモノにしながら勝ち上がり、決勝で小野伸二を擁する清水商に3−2の僅差勝ち。スコアだけを見るとぎりぎりで拾った印象があるが、実際は豪快なガブリ寄りだった。

 左サイドの古賀誠史が放つパワフルショット、本山と宮原による鋭い2列目からの抜け出し、金古と千代反田の高さがモノを言うリスタート。そのいずれもが図抜けた質と精度を持ち、まさにどこからでもいつでも点が取れた。
 
「撃ち合いになったら負けない自信はありましたよ。1点を守り切るみたいなやり方はしてなかったし、攻めてナンボのチームだったんで。まあでも、帝京も清商もかなり強かったですけどね。いま思えば、よく勝てたなって試合はけっこうありますよ」
 
 ひとつ訊いてみたかった。49勝2分けという3冠の一年間で、いちばん厳しかった試合はどれか? すると本山は即答で、選手権・県予選のある試合を挙げたのだ。
 
「2回戦の福岡大大濠戦。あれが最大のピンチでしたよね。3冠を意識していたわけじゃなくて、それは県予選を勝ち抜いてから、本大会に行ってからだよなってみんなで話をしてたんです。でもなんでだろ、予選の初戦というプレッシャーからか、すごく全体の動きが硬くてまるで本来のサッカーができなかった。重圧があったのかもしれない。やばい、やられる。シュートを撃ってもまるで入らなかったですから。けっこうな時間まで0−2で、なんとか追いついて延長戦に入って、突き放して……。結果的に、あれを乗り越えられたのが大きかった」
 
 選手権本大会ではむしろ、リラックスして戦えたという。
 
「志波先生は、とりあえず1試合1試合だぞって言ってくれてて、これはやり切らないともったいないって思ってました。選手権って、そういう場所なんですよね。とくに3年の時にそう感じたかな。勝っても負けても最後だから、逆に思い切ったいいパフォーマンスができる。少なくとも僕らはそうだったし、周りが考えているほどプレッシャーは感じてませんでしたね。

 ただ、俺はけっこう先生に怒られてた。初戦(1回戦の富山一戦で5−0の勝利)は結果的に大量リードで勝てたんだけど、僕はPKを外してて、試合後にすんごい説教されました。そのほかの試合でも『お前その程度のプレーしかできないのにプロに行くのか』って。要所要所で先生が締めてくれてたんですよね」

 
 そして1998年1月8日、迎えたカナリア軍団との雪の決勝だ。インターハイと選手権の決勝が同一カードとなるのは初で、夏の王者は冬に勝てないというジンクスが27年間続いていた。
 
 本山は試合前、こんな風に感じていたという。
 
「チームとしては帝京のほうが夏より上積みがあった印象で、普通に雪じゃなくて戦ってたら、帝京が勝ってたかもしれない。それくらい強かった。コウジ(中田浩二。当時の帝京のキャプテン)とも話すんですけどね。うちはキジ(木島良輔。帝京の10番)が本当に苦手で、金古もチヨ(千代反田)もあのドリブルにチンチンにされてましたから。雪はヒガシに味方したのかなって」