101年前(大正4年)夏、京都二中の全国優勝で歴史は始まった(京都)

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 初めての全国大会開催から100年が経過した高校野球。その記念すべき第1回大会は当時の中等学校を異称に、全国中等学校優勝野球大会として開催され、その優勝校が京都二中だった。京都二中は学校そのものは戦後の学制改革の際に廃校となったが、その流れは定時制となった鳥羽高校が受け継いだ。その後、朱雀高校鳥羽分校という歴史を経て、改めて府立鳥羽高校としてその伝統を継承していくことになった。複雑な継承の歴史と校名変更の経緯があり、その間は野球部も低迷していた。

第1回優勝校の京都二中は鳥羽に名前を変えても強さは健在

鳥羽は2015年の国体にも出場

 それが、図らずも20世紀最後の2000(平成12)年春に53年ぶりに復活。その年は夏も出場して、鳥羽健在を示した。そして高校野球100年目の15年夏にも出場を果たして話題も提供しオールドファンたちを喜ばせた。北嵯峨で5度の甲子園出場を果たした卯滝 逸夫監督が97年に異動してきて、鳥羽復活の基礎を作って甲子園に導いたのが大きかった。卯滝監督は立命館宇治に移り、鳥羽は山田 知也監督が06年に引き継ぎ、12年春と15年夏に甲子園に復活させている。

 ノーベル賞受賞者を何人も輩出している日本を代表する京都大もある京都は学生の街ともいわれている。関西の私学の雄と言われている同志社大と立命館大があり、高校野球でもこの両校の付属でしのぎを削りあってきた歴史がある。その系列校の立命館と95年から立命館傘下となった立命館宇治なども甲子園出場を果たしている。しかし、京都の高校野球といえば、平安の存在をなしに語ることはできない。

 1876(明治9)年に創立した平安は32年後に創部している。2008(平成20)年に、龍谷大の系列校であるということを強く示すために龍谷大平安となった。春39回、夏33回の甲子園出場回数を誇り、通算96勝68敗1引き分けという実績だ。優勝は夏3回、春は記憶に新しい14年に初優勝を果たしている。出場回数は春の方が多いのだが、勝利数は圧倒的に夏の方が多かった。それだけに、原田 英彦監督は伝統校の初優勝を喜んだ。新校名としても、初めての決勝進出だった。

[page_break:平安は1990年代に復活]平安は1990年代に復活

川口 知哉投手(平安)

 そんな平安も1980年代後半から90年代前半は苦戦した。その苦悩を脱したのが、97年夏に左腕の川口 知哉投手(オリックス)を擁して準優勝を果たした時だった。これで、再び「HEIAN」のユニホームが全国的に強く印象付けられた。

 京都勢としては、翌年の98年夏にも京都成章が準優勝している。京都勢の準優勝としては81年夏の京都商と、07年夏の京都外大西もある。京都商はかの伝説の剛腕投手・沢村 栄治を輩出したことでも知られている。ただ、沢村投手は1934(昭和9)年春には、17奪三振などを記録しながらも、3度の甲子園はベスト8止まりだった。戦前ではむしろ、40年春の準優勝が輝いている。その京都商だが、普通科校へ移行し、90年からは京都学園と校名変更した。新校名となっての甲子園出場はまだない。 また、京都外大西はもともと京都外国語大の併設校京都西として創立していたが、01年から、大学の系列色を打ち出すべく校名変更した。

 また、北部地区では福知山商が99年夏に初出場を果たしたが、その後、福知山成美と校名変更して、06年夏に愛工大名電、静岡商、熊本工を下すなどしてベスト8に進出。一気にその名を全国に知らしめた。その後08年夏、09年春、13年夏、14年春とコンスタントに出場を果たしている。

 現在では、龍谷大平安に対する最大のライバルとしての存在となっている。これに京都外大西が絡む三すくみ状態で、そこに立命館宇治や京都翔英、京都国際といった新しいところが食い下がる。さらには鳥羽やかつて甲子園出場した桂の歴史を担う乙訓、京都府立商の歴史を背負う京都すばるなどの府立勢が追いかけるという構図だ。また、京都市立塔南も実績を上げつつある。かつて甲子園出場の実績がある東山、大谷、花園と公立では西京、峰山といったところも忘れてはいけないであろう。

(文:手束 仁)