海岸線沿いにモノレール建設の計画があった熱海(筆者撮影)

昭和の大観光地「熱海」。バブル崩壊以降の凋落が伝えられていたが、最近では元気を取り戻したという報道も目立つ。熱海は年間を通じて15回ほどの花火大会が開催され、多くの来客を引きつける。


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熱海は、海あり山あり温泉ありという風光明媚な場所だが、JRを除く公共交通はバスとタクシーくらいだ。市街地は海岸沿いから急坂を登る細長い地形であり、平地が少ないのが特徴で、歩いての移動が容易ではない場所が多い。

また、熱海は伊豆半島の付け根に位置するため、トップシーズンになると市内を縦貫する国道135号線の通過車両が多くなり、市内の移動の車、駐車場に入れない車などが重なり大渋滞を引き起こしている。夏の時期は、市内のバス停に「20〜60分遅れることがある」という掲示がされるし、JR熱海駅から通常はバスで15分ほど(距離2.2kmほど)の熱海港(初島行、大島行客船運航)では、船に乗り遅れる客が多発し、注意を呼び掛けている。

モノレール計画はいつ生まれた?

こうした市内交通の問題は戦後の高度経済成長期から指摘されてきたが、今も手つかずのままだ。しかし、何もしてこなかったわけではなく、実は1965年前後に「熱海モノレール」をJR熱海駅から熱海港より少し先のロープウェイ乗り場(1958年開業のアタミロープウェイ山麓駅)まで走らせる計画があった。環境破壊といった批判や政治的な闘争もあって結局は頓挫したモノレール計画の足跡を追ってみた。

1964年、東京駅―新大阪駅間に東海道新幹線が開業し、熱海駅も生まれた。新幹線熱海駅開業により、来客数が増加し、市内の交通渋滞がより深刻になる可能性があることから、モノレール構想が生まれた。当初、東邦観光開発KKと、日本高架電鉄(現在の東京モノレール)や日立製作所などが出資する熱海モノレール株式会社の2社が名乗りを上げ、許可申請したが、運輸省(現在の国土交通省)は1963年12月21日に東邦観光開発の申請を却下し、熱海モノレール(株)に許可を出した(草町義和「熱海駅前の地下に眠る幻のモノレール駅」『鉄道ファン』2008年12月号参照)。


熱海モノレール株式会社作成パンフレット(発行日記載なし)


路線図を拡大。熱海駅から海面に出て、和田浜海岸のロープウェイに至る

当時の国鉄の駅については、民衆駅にすることが各地で行われていた。民衆駅とは駅舎の建設を国鉄と地元が共同で行い、その代わりに商業施設を設けた駅のことだが、熱海駅についてはゴタゴタが続いて計画が定まらなかったため、熱海駅付近の地下に造る予定であったモノレール始発駅は、当時、駅前再開発で建設計画があった駅前の熱海第一ビルの地下3階に決まった。

モノレール計画は、跨座式3両編成の車両を用い、熱海第一ビル地下からトンネルを通って国立熱海病院(現・国際医療福祉大学熱海病院)付近で海岸に出て、海岸から数十m離れた海上を海岸沿いに走り、途中3カ所の海上駅を経て、アタミロープウェイ山麓駅に至るというルートだった。当時の作成されたパンフレットには以下のような記述がある。

モノレール運行区間は 熱海駅から海面に出て、和田浜海岸のロープウェイ前までです。図のように国際的泉都の大玄関熱海駅前を地下で出たモノレールは 国立病院をトンネルで海上へぬけ、他の交通機関では例を見ない海面上の経路をとり、お宮の松、渚町の海岸沿いに、和田浜南町のロープウェイ前にいたる2kmの区間です。

反対運動でたびたび計画変更

熱海モノレールは熱海駅前から海岸線に出るまでトンネルを造るので、その付近の旅館や別荘保有者の振動や景観の破壊、温泉が出なくなるおそれなどの不安により、強い反対にあった。また、海上駅を造るにあたって、埋め立て地を造成すること、レールの柱が海に立つということで、環境破壊や美観を損ねるといった批判も多かった。そのため、ルート変更や海上駅の削減、海上駅用の埋め立て地を最低限にして、陸地と駅を桟橋でつなぐ案などが当時検討されている。また、資金難だったのか、工事を1期と2期に分ける計画も出ていた。


モノレールはこのあたりでトンネルから出て海岸にそって海上を走り、左手山上に小さく見える熱海城下のロープウェイ山麓駅まで行く計画だった(筆者撮影)

1963年12月の運輸省許可時には1年半ほどで完成とみられていたが、1967年ごろまでゴタゴタは続いている。その間、ルート上の地域の測量などは行われていたが、工事が実行されたのは、熱海モノレールが所有者である熱海市から4000万円で購入した熱海第一ビル地下3階へのホーム建設だけだった。

熱海駅と同ビル地下1階は地下道で結ばれているが、当時、この地下道の工事費1億円も同社が負担するので協力してほしいと熱海市役所に持ちかけている。当時、昭和40年不況で熱海第一ビルのテナントもなかなか集まらない状況で、熱海市としては願ってもない話であったが、地域の反対運動を当時最大野党だった社会党が支持しており、モノレール計画は与党対野党という政治的な対立構造を生み出してしまったようである。結局、モノレール計画は立ち消えになり、話題にならなくなってしまった。

本ビルには現在、店舗やオフィスが入居している。地下1階は商店街とバスターミナル(現在は駐車場)、地下2階は駐車場で、地下3階が機械室とモノレール駅だ。現在も熱海モノレールのホームが眠っており、マニアの間でも話題になっている。同ビルの管理会社に取材したが、モノレール駅がある場所は封鎖されており、立ち入れないという。地下3階ということで他の用途に転用できなかったものと思われる。


地下3階にモノレールのホームが眠る熱海第一ビル(筆者撮影)


熱海駅前と熱海第一ビルの地下一階をつなぐ通路。奥に見えるビルへの階段手前に地下3階に通じる階段ができる予定であったと思われる(筆者撮影)

JR熱海駅は標高が70mほどある。熱海駅付近から急勾配のトンネルを掘り、海岸線に出ることになる。しかし、駅周辺は旅館や別荘が乱立していたため、そこでの振動問題、美観問題が大きい障害となった。振動に関して会社側は「モノレールはタイヤで走るので振動は出ない」と説明しているが、反対派は信じていなかったようだ。また日本有数の温泉街であるために、工事によって温泉が出なくなる可能性を危惧していたようだ。

そうした中で前述のように社会党が反対運動を繰り広げる。当時の熱海新聞を見ると、熱海モノレールの重役に地元出身の自民党の代議士で運輸政務次官も務めた山田弥一氏(1906年4月〜1978年8月)が就任しており、これに対して反対派が批判を繰り広げていた様子がうかがえる。

計画を進めるために山田氏は重役を辞任しているのだが、陰で糸を引く人物として社会党などが批判していたようで、同氏の潔白である旨の声明文も記事になっている(1967年9月8日付熱海新聞)。さらに反対派からは地元の交通労働者の生活を守る戦いであることが主張されている。モノレールができることによってバスやタクシー従事者の職が奪われることを懸念したのであろう。計画段階から地元交通機関に経営参画させるなどの対応を取っていれば、結果は違っていたかもしれない。

再びモノレールの検討を


反対運動にあい計画変更を繰り返していた時期の熱海新聞記事(1966年9月17日号)

今後、熱海の観光が本格的に上向くのかはわからないが、市内の交通問題が将来ネックになることは間違いない。観光客の移動だけでなく、高齢化が進む地元住民の足としてもモノレールのような交通手段は不可欠に思う。実現すれば、当時ネーミングされていた「夢の空中電車」として観光の目玉になるはずだ。取材の初めに熱海市役所に熱海モノレールの資料や情報がないか問い合わせたが、一切ないということだった。もう少し過去の交通政策の変遷に地元行政は関心を持つべきだ。

再三変更されたモノレールのルートだが、ロープウェイ山麓駅からさらに熱海市内の坂を上がって来宮駅まで結ぶ計画も出ている。驚いたことに、1963年12月19日付熱海新聞は、建設中(当時)の「新橋―羽田空港間」のモノレール(現東京モノレールのこと)と接続させる計画があると報じている。ここまでくると夢のまた夢の話だが、現在も熱海第一ビル地下3階に眠る始発駅施設を活用して、再びモノレールを建設する計画が議論されるくらいになれば熱海の復興も本物だと思う。ぜひ検討していただきたい。