左サイドの古賀誠史が放つパワフルショット、本山と宮原による鋭い2列目からの抜け出し、金古と千代反田の高さがモノを言うリスタート。そのいずれもが図抜けた質と精度を持ち、まさにどこからでもいつでも点が取れた。
 
「撃ち合いになったら負けない自信はありましたよ。1点を守り切るみたいなやり方はしてなかったし、攻めてナンボのチームだったんで。まあでも、帝京も清商もかなり強かったですけどね。いま思えば、よく勝てたなって試合はけっこうありますよ」
 
 ひとつ訊いてみたかった。49勝2分けという3冠の一年間で、いちばん厳しかった試合はどれか? すると本山は即答で、選手権・県予選のある試合を挙げたのだ。
 
「2回戦の福岡大大濠戦。あれが最大のピンチでしたよね。3冠を意識していたわけじゃなくて、それは県予選を勝ち抜いてから、本大会に行ってからだよなってみんなで話をしてたんです。でもなんでだろ、予選の初戦というプレッシャーからか、すごく全体の動きが硬くてまるで本来のサッカーができなかった。重圧があったのかもしれない。やばい、やられる。シュートを撃ってもまるで入らなかったですから。けっこうな時間まで0-2で、なんとか追いついて延長戦に入って、突き放して……。結果的に、あれを乗り越えられたのが大きかった」
 
 選手権本大会ではむしろ、リラックスして戦えたという。
 
「志波先生は、とりあえず1試合1試合だぞって言ってくれてて、これはやり切らないともったいないって思ってました。選手権って、そういう場所なんですよね。とくに3年の時にそう感じたかな。勝っても負けても最後だから、逆に思い切ったいいパフォーマンスができる。少なくとも僕らはそうだったし、周りが考えているほどプレッシャーは感じてませんでしたね。ただ、俺はけっこう先生に怒られてた。初戦(1回戦の富山一戦で5-0の勝利)は結果的に大量リードで勝てたんだけど、僕はPKを外してて、試合後にすんごい説教されました。そのほかの試合でも『お前その程度のプレーしかできないのにプロに行くのか』って。要所要所で先生が締めてくれてたんですよね」
 
 そして1998年1月8日、迎えたカナリア軍団との雪の決勝だ。インターハイと選手権の決勝が同一カードとなるのは初で、夏の王者は冬に勝てないというジンクスが27年間続いていた。
 
 本山は試合前、こんな風に感じていたという。
 
「チームとしては帝京のほうが夏より上積みがあった印象で、普通に雪じゃなくて戦ってたら、帝京が勝ってたかもしれない。それくらい強かった。コウジ(中田浩二。当時の帝京のキャプテン)とも話すんですけどね。うちはキジ(木島良輔。帝京の10番)が本当に苦手で、金古もチヨ(千代反田)もあのドリブルにチンチンにされてましたから。雪はヒガシに味方したのかなって」
 
 先制点を奪ったのは帝京だった。前半21分、中田からの一本のロングパスに呼応し、金杉伸二がGKと競いながら頭でねじ込んだ。本山は「志波先生がいちばん警戒していた形でやられた。でもあれで逆に開き直れた部分があった」と語る。東福岡はその3分後、古賀に代わって左サイドで先発した榎下貴三が同点弾を決めた。
 
 そして後半頭から、志波監督は勝負に出る。1トップの寺戸良平に代えて青柳雅裕を投入。その青柳をトップ下に置き、代わって本山を1トップに配するお決まりパターンだ。これによって大抵のチームディフェンスは混乱に陥る。分かっていても本山の動きに翻弄されてマークが集中し、フリーになる青柳や宮原に得点機が生まれるのだ。