新国立競技場には、そうした意味で注目していた。世界に誇れるようなものになって欲しいと願っていた。だが、これまでのところ、建設の音頭を取る人たちから、日本のスポーツ文化の発展を願うような声は聞こえてこない。「斬新なフォルムだから」と言ったのは、コンペで審査委員長としてザハ・ハディドさんの案を最優秀作品に選んだ安藤忠雄氏だが、メディアは、それを傍観するように眺めてきた。あのようなフォルムのスタジアムは、神宮の杜の景観を損なわないのか。自然破壊には繋がらないのか。一部建築家たちの間からは、改築でも十分優れたスタジアムに変貌できるとする声も挙がったが、それぞれ議論は深まっていかなかった。陸上の国際大会を開くために不可欠なサブトラックが併設されないことについても、問題視する声はほとんど挙がらなかった。

 とはいえ、20代、30代の人に、スタジアムはスポーツ文化の象徴だと言ったところでピンと来る人は少ないと思う。ビッグスタジアムの建設が行われるのは、何年、いや何十年かに一度。建設の瞬間には、ある程度、長く生きていなければ、立ち会うことができないのだ。先述の通り、若者には外国の実情を知る機会も少ない。経験を生かすことができるのは、この場合、年長者に限られる。文化は築き上げるものだとすれば、年長者の責任は重くなる。

 新国立競技場建設問題で、問われているのは年長者の力。大人の力だ。

 繰り返すが、スタジアムの寿命は最低でも50年。一度完成したら消せない、まさに後世に残す産物になる。いい大人がどれほどいるか。スタジアムの善し悪しは、その数に比例する。50年後、まず生きていないであろう人たちが、スタジアム作りを無計画に進める姿はかなり見苦しい。僕はそう思うのだ。