新年早々、渡邉恒雄読売グループ本社会長がご機嫌である。松井秀喜を巨人の次期監督にするとぶち上げたのだ。

原辰徳監督のものと、ヘッドコーチに“入閣”させて“帝王学”を学ばせるのだそうだ。
この手のスポーツ新聞の“辞令”、昭和の時代から全く変わっていない。昔は「時期尚早」とか「名選手必ずしも名監督ならず」とか、多少とも批評めいた論評も掲載したと思うが、今は報知新聞だけでなく、他紙ももろ手を挙げて翼賛だ。提灯記事のオンパレードである。

松井秀喜は10年前、読売グループを挙げての引き留めを振り切ってアメリカに旅立ったのだ。原辰徳監督(当時もそうだった)も、長嶋茂雄終身名誉監督も食事をしたり、話をしたり、懸命に引きとめた。

松井秀喜はおそらくその時の屈託が残っているだろう。しかし渡邉氏はむしろその引け目に付け込んで、松井を引き入れようとしているかのようだ。

あの当時も渡邉恒雄氏は、「オリンピックの旗手にしてやる」「次期監督も保証する」と言った。ポストで人を釣るのはこの人の常とう手段だ。
清武英利氏と魚住昭氏の『Yの悲劇』を読むと、この人は、こういう形で人を引き上げ、自分の配下にしてきたことがよくわかる。

渡邉氏は、野球とは関係のない話をしているのである。人気者の松井秀喜に「俺の手下になれ」と言っているのである。
その代り、自分の顎の下に入った人間は、絶対服従である。そういう形で権力基盤を築いてきた。

昨年、完全優勝を遂げ、ポストシーズンも、アジアシリーズも制した原監督はどんな気持ちで渡邉氏の大言壮語を聞いただろうか。
すでに渡邉氏の顎の下にいる原監督は、抵抗するすべはない。
「また老人がぶち上げている」
と思いつつも、首筋に冷たいものを感じているのではないだろうか。
原にとって松井秀喜は嫌な後輩ではないだろう。しかし、“次期監督”含みでヘッドコーチに座られる気分は、どうなのだろう。
2年もすれば監督の座を明け渡さなければならない。原さんは例によって「読売グループの人事異動」で顧問だの総監督だのに祭り上げられるのだろう。

岡崎郁ヘッドコーチは、今年1年で終わりがほぼ確定した。この人は清武騒動でも首のすげ替えをさせられかけたが、何と気の毒な星回りなのだろうか。
地位はあっても、権力のない人間はつらいものである。

そういえば、1年前に名前が挙がった江川卓は完全に過去の人になったようだ。まるで道化役である。

松井秀喜に指導者の資質があるかどうかは未知数である。松井のような周囲に気を配りすぎる性格、自分で責任を背負い込む性格の人間は、あるいは向いていないかもしれない。

でも、渡邉氏にとっては、それは問題ではないのだ。
昨年の原巨人の完勝も、多士済々の巨人選手をうまく統御した原監督の功績ではない。強力な補強を断行したフロントの手柄であり、それを指示した渡邉氏あればこそ、なのだ。
「俺がいる限り、誰がやってもうまくいくんだ」そう思っているのではないか。
渡邉氏は当年88歳という年齢もお忘れのようだ。

今のところ、松井は意志表示をしていない。今年は1年浪人するようだ。



「松井秀喜が帰ってきて、巨人の采配を振るえば、お客さんがたくさん見に来る」という発想は、昭和の時代のものである。
三冠王落合博満が優勝し続けても中日の観客動員は減少した。星野仙一も観客を増やしてはいない。
今のお客はもっと目が肥えている。良い試合、良いプレー、伯仲したペナントレースにこそ、拍手を送る。また、地道なマーケティングがあればこそ、観客席は埋まっていく。

松井秀喜が監督になったくらいで、プロ野球の人気が沸騰することはありえない。テレビの視聴率だってそれほど上がらない。渡邉氏配下日本テレビでさえも、それほど騒がないだろう。

MLBでは、スター選手が監督になるのは稀である。ほとんどすべてのMLB監督は、マイナーチームでの指導者の経験を経てMLBに上がってくる。監督になる時点では数年から十数年の経験を積んでいるのが普通だ。
日本でも日本ハムの栗山英樹監督、ヤクルトの小川淳司監督、オリックスの森脇浩司監督など、現役時代には実績が乏しい監督も出てきた。選手と指導者の資質が全く別であることを考えれば、むしろこの方が普通だろう。

巨人が球界の盟主であるのなら、人気者を客寄せパンダ的に監督にするような古臭い人事は率先してやめて、実力派監督を抜擢してはいかがだろう。

もう一ついうなら、渡邉氏は米寿の今年、勇退されてはいかがだろうか。