写真提供:photoAC

写真拡大 (全2枚)

9月17日の『虎に翼』では、尊属殺人罪に問われている美位子の窮状について、よねは轟の制止を振り切って航一に説明した。自らも暴力のある家庭に育ったよねの思いがこもった言葉に、航一も沈痛な面持ちで耳を傾けた。「珍しいことではない」という家庭内での性暴力について、経験者の碧月はるさんが語った記事を再配信します。*********通常の家庭では、親が子どもに道徳観念や“人として”大切なことを教える。だが、中には歪んだ感情をぶつける相手に「我が子」を選ぶ親もいる。そういった場合、子どもは親に必要なあれこれを教わることができない。私の親も、まさにそれだった。

この記事のすべての写真を見る

* * * * * * *

歪んだ家庭で息をする者同士の夜

暗い夜道を独り駆ける。誰にも捕まらないように、誰にも見つからないように。走るたび、股の奥に鈍痛が走る。それでも足を止めず、人目を避けるために裏道を選び、目的地へと急いだ。河原沿いにある幼馴染の家まで、およそ5分。たったそれだけの距離が、いつもやけに遠く感じた。

窓ガラスを軽くノックすると、カラリと乾いた音を立てて窓が引き開けられる。深夜1時を回っているのに、家人は特に驚いた様子もなく、私を室内に招き入れた。目的地は、同級生である幼馴染の家。私と幼馴染にとって、これは非日常ではなく、ありふれた風景だった。私は父の存在を感じずに済む場所を、彼は人の温もりを欲していた。「互いの利害が一致していた」という表現は、いささか私に都合のいい物言いだろうか。でも、実際当時の私たちは、互いを必要としていた。

「何読んでるの?」
「小説。お前、多分好きだと思うから、読み終えたら貸すよ」

夜空に浮かぶ小さな満月と、インディアンのモチーフを模したテントから漏れる灯り。暗闇をぼんやり照らすかすかな光が美しい装丁が、重厚な本の厚みにしっくりと馴染んでいる。本はいい。物語の世界に没入している時間だけは、現実の痛みや煩わしさを忘れられる。現世から逃れる時間がなければ、私はまともに息ができない。

「読みたい。待ってる」

それだけ答えて、硬い床に腰を下ろす。「ほら」と彼が投げて寄越した毛布は、わずかにカビの臭いがした。洗濯、掃除、食事の用意。それらを親にしてもらえるのが当たり前な家もあれば、そうではない家もある。私も彼も、世間一般で言うところの「普通」とは少し違う世界で育った。だが、私たちにとっては、それが揺るぎない「日常」だった。

「本当は要らなかった」母が溢した本音

私は、東北の田舎町で生まれた。「自然に囲まれた美しい町」といえば聞こえはいいが、実際は過疎化が進み、年配者だけが取り残され、狭い町中にあふれるのはくだらない噂話と大人たちが垂れ流す不満の数々だった。私の両親も例に漏れず、日々不満を抱えていた。彼らの不満のおおよそを占めているのは、お金の悩みだった。父も母も、「金がない」が口癖だった。そのストレスは、いつも末っ子の私に向かった。

「子どもは二人で終わりにするはずだった。予定外にあんたができちゃったから、仕方なく産んだのよ。本当は要らなかったのに」

母にはじめてこの台詞を言われたのは、小学生の頃だった。生まれてきたことそのものが罪だった。のちに、「父が避妊をしてくれなかったこと」を併せて聞かされた。それを知ったとき、心の底から「死にたい」と思った。

「あんたのせいで」
「お前がこうさせたんだ」

母と父のこの言葉が体に染み込むたび、自分の身に起こる悪いことすべてを「自分のせいだ」と思うようになった。私が生まれてしまったせいで、母が苦しんでいる。私が存在するせいで、父がおかしくなってしまった。自分さえ生まれてこなければ。そう思うたび、自分に罰を与えた。左腕に与え続けた罰の痕は、40歳を過ぎた今でも体に刻まれている。消えることは、二度とない。

弱くて臆病な父は、哀れな道化だった

父の体からは、いつも饐えた臭いがした。私は、その臭いが嫌いだった。父はアルコール依存症を患っており、酒を飲まずにはいられない人であった。酒を飲んでおらずとも、普段から無駄に声が大きく、自分が勝てる相手と見れば上から目線で物を言う。その有り様は、酒を摂取した途端に手がつけられないほど酷くなった。

そんな父は、近所の飲み屋でも悪い意味で有名で、大勢に嫌われていた。どのくらい嫌われていたかというと、学校帰りに「お前の親父、迷惑なんだよ。どうにかしろよ!」と知らない大人にいきなり恫喝されるくらいには疎まれていた。今思えば、まだ子どもだった私にそれを言う相手もまた、「迷惑」以外の何者でもない。ただ、父の言動や行動がどれほど周囲を不快にするものかを知っているので、その人も腹に据えかねた結果の行動だったのだろうと思う。

しかし同時に、父は市職員でもあり、警察の生活安全課や市議会議員とのつながりを持っていた。また、広報活動や地区の行事には積極的に参加し、学校のPTA活動にも熱心だった。そうやって埋められていく外堀を眺めながら、私は何もかもを黙っていた。当時の私にとって「大人」は、「信用していい人間」ではなかった。

「俺にはヤクザの友達がいる」が父の口癖だった。「自分の一言で動く人間が大勢いる」と宣うわりに、本当にヤクザの友達と父が一緒にいる場面を見たことがない。周囲が怯える言葉を使い、反社の人間とのつながりを誇示し、自分という存在に恐れをなすよう仕向ける。しかし、そうやって必死になる父の姿は、実に哀れで滑稽だった。当時から私は、父の嘘に気付いていた。父が本当は、とても弱い人間であるということにも。まるで道化のようだと思った。自分の弱さを必死に隠し、小さなものをどうにか大きく見せようとする哀れなピエロ。

「抵抗」は命を危険に晒す行為だった

酒に酔った父は、理性を失い欲だけに突き進む獣となる。自身の欲を満たすためなら、娘の体を使うのも厭わない。父にとって私は「守るべきもの」ではなく、「己の欲を満たすための道具」でしかなかった。

父が私の布団に入ってくるのは、いつも深酒をした日の夜だった。酒臭い息と煙草の臭いが混ざり合った口内が顔に近づくだけで、吐き気がした。でも、抵抗はしなかった。当然ながら、抵抗したことがないわけじゃない。抵抗した結果、さらなる苦痛を被った経験が重なった結果、「抵抗しない」のが一番早く終わることを学習したに過ぎない。

自分より体の小さい娘を黙らせるのに、大袈裟な暴力は必要ない。例えば、娘の口を掌で塞ぎ、隠部を強く摘んで力任せにつねる。それだけで、やられた側は恐怖と苦痛で相手に従わざるを得ない。それなのに、娘の側が成人後に被害を訴え出た場合、往々にして「抵抗したかどうか」が争点になる。「抵抗しなかった」のではなく「抵抗する気力を根こそぎ奪われた」のだと、たったそれだけのことが分からない大人の何と多いことか。「分からない」のか、「分からないことにした方が都合がいい」のか、どちらかは知らないが。

同意なんかしていない。ただの一度も、ただの一瞬たりとも、私は父との性交を望んだことなどなかった。しかし、それを証明する手立てがない。何より、すでに父の行為は時効である。今現在も私が後遺症に苦しんでいようとも、何度悪夢を見て叫ぼうとも、「一定の時間が過ぎれば」加害者は許される。いつだって被害者だけが、許されたくても許されない。


写真提供:photoAC

虐待被害において、世間は必ずしも「被害者の味方」ではない。雄弁な大人と、被害に怯え口を閉ざしがちな子ども。その不均衡な力関係を読み間違え、「問題なし」と判断されれば、被害者の地獄は続く。場合によっては、事が表に出るのを恐れ、口止めを強要するあまりに折檻が酷くなることも稀ではない。SOSを出したら、100%助けてもらえる。そんな制度が確立されていない以上、被害者が安心して声を上げるのは難しい。

娘を助けず「娘を憎む」道を選んだ母

父は欲求を果たし終わると、満足したように自室に戻り、母の横でイビキをかいて眠るのが常だった。イビキの音が、段々深く、大きくなっていく。そこに、母の寝息が混ざる。母の寝息は、はじめは演技であることが多い。母は、父が何の目的で私の布団に入っているのかを知っていた。それが「単なるスキンシップ」ではないことも、刑法に触れる類のものであることも。でも、母は私を助けなかった。

母にとって、悪いのは父ではなく、「父をその気にさせる私」だった。「実の父親をたぶらかす私」に罪があると考えた方が、母の傷は浅く済んだのだろう。私自身が子を産み、母となった今、改めて母の思考を理解しようと努めたが、できるはずもなかった。「母親」より「女」を優先させ、娘に嫉妬の眼差しを向け、竹の定規で折檻をする。それが、私の母だった。

テストでミスをすれば殴られ、口答えをすれば殴られ、誤ってお皿を割れば殴られる。私の手の甲や腕には、頻繁にミミズ腫れが浮いていた。それらも、両親に言わせれば「教育」であるらしい。「親ならば」何をしても許されるのに、「子ども」の苦痛には無頓着な社会の構図が憎い。父親が娘に対し性的虐待を行なっていた場合と、堪りかねた子どもが成人後に親を殺した場合。刑法上、どちらの罪が重いかは問うまでもないだろう。この国の法律は、「魂の痛み」を測る仕様になっていない。

母の寝息が演技ではなく、本物のそれに変わるまでに、30分から1時間はかかる。その間、私は身じろぎもせず、全身を耳にして両親のイビキと寝息を感じ取るのが日課だった。二人が熟睡しているのを確信したのち、音を忍ばせ家を抜け出す。玄関の鍵を外す瞬間が、一番緊張した。古い家の鍵は、引き下ろす際にガチャン!と嫌な音を立てる。そこさえクリアすれば、あとは誰にも見つからないよう全速力で夜道を駆けるだけだ。

私の秘密を知っている、ただひとりの人。父の行為を知っても尚、私を軽蔑しない人。幼馴染が暮らす狭い六畳一間だけが、私が心から安らげる唯一の居場所だった。

次回「自死を引き留めてくれた同級生の存在。「虐待されるのは自分が悪いから」だと思い込んでいた私に、彼が放った言葉は」はこちら