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父親による性虐待、母親による過剰なしつけという名の虐待を受けながら育った碧月はるさん。家出をし中卒で働くも、後遺症による精神の不安定さから、なかなか自分の人生を生きることができない――。これは特殊な事例ではなく、安全なはずの「家」が実は危険な場所であり、外からはその被害が見えにくいという現状が日本にはある。何度も生きるのをやめようと思いながら、彼女はどうやってサバイブしてきたのか?生きていく上で必要な道徳や理性、優しさや強さを教えてくれたのは「本」という存在だったという。このエッセイは、「本」に救われながら生きてきた彼女の回復の過程でもあり、作家の方々への感謝状でもある。

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前回「元夫の暴言が許せない。離婚にも踏み切れない。“家族”への憧れを捨てきれず葛藤する最中、うつ病と診断された」はこちら

“努力”だけでは越えられない壁

両親が仲良く笑っている家庭に、ずっと憧れを抱いていた。家族みんながご機嫌で、困った時には支えあって。そういう家庭を築くのに必要なのは、“努力”だけだと思っていた。でも、実際に自分の家庭を持ってみて、そんなのは絵空事だと知った。

もちろん、努力は無意味だなどと極端なことをいうつもりはない。ただ、努力だけでは越えられない壁が山ほどあることに打ちのめされた。結婚後に相手の行動や言動がこんなにも変わってしまうこと、育児書通りにいかない育児の大変さ、影を潜めていた精神疾患の再発。そのすべてに混乱し、怯えていた。

「変わってしまった」と感じていたのは、おそらくお互い様だったろう。重い悪阻の時期から、私は明らかに余裕を失っていた。だが、悪阻が重いことも、息子の癇癪がひどいことも、私にコントロールできる類のものではなかった。

私は、子の父親である元夫に変わってほしかった。妻に「いつも機嫌よく身の回りの世話をしてくれる状態」を望むのではなく、「共に子育ての大変な時期を乗り越える戦友」になってほしかった。

息子がいなければ、性交後に「用済みだからあっち行って」と言われたその晩に別れていただろう。でも、当時の私は息子から父親を取り上げる覚悟がなかった。一度は離婚を決意したものの、彼に泣いて謝られ、「これからは変わる」と言われた時、私はどこかホッとしていた。

学歴は中卒で、唯一ある資格はヘルパー2級のみ。幼い長男を抱えて、実家の援助が得られない状態で、経済的にやっていけるのか。その不安が拭えなかった。

「ひとりっ子はワガママ」という脅し

1人で子育てをする自信がない。その不安がいつの間にか、元夫との関係を「やり直したい」から「やり直さなければ」にすり替わっていた。そんな最中、周囲からは「2人目はまだか」と急かされた。

入院するほど悪阻が酷かったのに、長男を預ける先もない私が、容易に2人目に踏み切れるわけもない。いくらそう伝えても、「子どもは授かりものだからどうにかなる」と言われた。「どうにかなる」と無責任に言う人が、いざという時、どうにかしてくれるわけではない。すべてが雑音に聞こえた。頼むから、みんな黙ってくれ。あの頃、私は毎日のようにそう思っていた。

両親もまた、周囲と同じように2人目の催促に余念がなかった。電話をかけてきては「まだか」と問い、二の句のように「ひとりっ子はワガママになるぞ」と私を脅した。同じワガママを言っても、きょうだいがいる子は見過ごされ、ひとりっ子の場合のみ「ほら、あの子はひとりっ子だから」と言われる。

その空気が苦しくて、児童館や公園からどんどん足が遠ざかった。体を動かさねば眠らない長男を連れて、私は連日、海や山に出かけた。人が少なく、どれだけ走り回っても迷惑にならない広さがある大自然。そこだけが、私と長男が息をつける場所だった。


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まだ舌の回らない口で、坊主頭の長男が「かーしゃん(お母さん)」と呼ぶ。よく走る子どもで、走っている間は決して後ろを振り返らなかった。

小さな背中を必死に追いかけながら、私もこんなふうに迷いなく走れたら、と思った。お母さんが絶対に追いかけてきてくれる。そんな自信が彼の中にあることを感じるたび、自分の存在をも肯定してもらえた気持ちになれた。

“「だれかに必要とされるってことは、だれかの希望になるってことだ」”

三浦しをん氏の長編小説『まほろ駅前多田便利軒』(文春文庫)の一節である。あの頃、抗うつ薬以上に私の心を掬い上げてくれた物語は、寂しい音色と優しい音色が混ざり合っていて、どちらか一辺倒ではないことが、私にとって希望だった。

我が子を愛することは恐怖を伴う

物語の主人公は、便利屋を営む多田啓介と、多田の同級生の行天春彦。常識人の多田と破天荒な行天。正反対の2人の掛け合いが楽しく、笑いを誘う場面も多々ある。だが、多田と行天にはそれぞれ重い過去があり、時折その痛みが表にこぼれ出す描写に、何度も自身を重ねた。

“「親に虐待されて死ぬ子どもはいっぱいいるのに、虐待した親を殺す子どもがあんまりいないのは、なんでかな」”

行天が漏らしたこの台詞を、今でも思い出す。なんでかな。なんで私はーー。そう思いかけて、立ち止まる。これでよかったのだ。彼らを殺すのではなく、逃げる選択をした。私にその選択を与えてくれたのもまた、物語だった。

夫との関係にどれほど悩んでいようとも、生活は続く。子どものご飯を作り、オムツを替え、トイレトレーニングをして、外に連れ出し、同時に家事をこなす。

前回のエッセイで綴った通り、この時期の私はうつ病を患っていた。しかし、どんなに「起きたくない」と思っても、日がな一日寝込むことは許されなかった。私が起き上がれずにいると、長男は窓から脱走を図る。時には、癇癪を起こして外ぐつを投げつけられることもあった。

外に行きたい。思いっきり走り回りたい。その欲求はとどまることを知らず、雨の日だろうとお構いなしで外遊びをせがまれた。息子の望みを叶えてやりたい気持ちの裏側で、「この子がいるから休めない」とも思った。


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“「彼は子どもがこわいんです。自分が子どものときに、どれだけ痛めつけられ、傷つけられたかを、ずっと忘れられずにいるひとだから」”

長男を愛おしく思う一方で、私は長男を恐れていた。彼を傷つけてしまうことを、両親と同じ過ちを繰り返してしまうことを、恐れていた。我が子を愛することは、恐怖を伴うものなのだと知った。

「できない」に追い詰められる日々

息子を愛している。でも、正しい母親でいられる自信がない。息子の父親との関係もうまく築けない。うつ病による倦怠感は凄まじく、家事を手抜きするよりほかなく、徐々に室内は不衛生になった。長男はアトピー性皮膚炎を患っているため、掃除や寝具の洗濯を少し怠っただけで症状が悪化する。肌をかき壊す彼を見るたび、責められているような気がした。

自分は、母親になる資格がなかったのではないか。

妊娠中から何度も頭をよぎった懸念が、再度頭をもたげる。愛されたことのない私が、まともに息子を愛せるのか。虐げることと「教育」の境目がちゃんとつくのか。元夫とは離婚すべきか、しないべきなのか。

私はいつになったら“ふつう”になれるのか。ぐるぐると回る思考に眩暈がした。背中から勢いよく抱きついてくる長男を、「うるさい」と思ってしまう。どうにか飲み込んだ言葉が、腹の中で腐っていく。

連日、虐待関連のニュースがテロップで流れてくる。あのニュースを他人事として眺められる母親が、この国に何人いるのだろう。何人の母親が、薄皮一枚のところを恐る恐る歩いているのだろう。

“「助けてって言ってみな」”

言いたい。「助けて」と、言いたい。でも、誰に?誰に言えば助けてもらえる?
わからなかった。わからないから、必死に頁をめくった。「助けて」と思いながら物語を読む。私には、ほかにすがれるものがなかった。だからこそ、もしこの世界に本がなければ、私はおそらく生き延びることができなかったろう。

与えられなくても、与えられる

「虐待は連鎖する」ーーこの言葉に縛られていたことは、過去のエッセイでも綴った通りである。世間の目は勝手なもので、私の過去を知らなければ肯定されたであろうことさえ、私が虐待サバイバーであると知った途端に、「あの人は生い立ちに問題があるから」と生育環境に集約される。

できたことも、できなかったことも、すべてそこに結びつけられる。息苦しい。生い立ちは選べないのに、勝手に貼り付けられたレッテルを剥がせない。

“「だけど、まだだれかを愛するチャンスはある。与えられなかったものを、今度はちゃんと望んだ形で、おまえは新しくだれかに与えることができるんだ。そのチャンスは残されている」”

与えられなかった人間は、与えることができない。そういった類の言葉に、何度も希望を奪われた。そんな私にとって、多田の言葉は光だった。「与えることができる」。その自信が、何よりほしかった。人より持っているものが少ない私でも、私なりに息子に手渡せるものがある。そう信じなければ、前に進めない。

何をやっても否定され続けた半生だった。私は、私を信じることが、とてつもなく難しい。しかし、本書と出会って以降、私は少しずつ己を“信じたい”と思えるようになった。


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物語の終わりに多田がたどり着いた境地を、この当時、必死に握りしめた。

“幸福は再生する”

これまで、何度も壊された。自らも壊した。それでも、再生を繰り返してきたからこそ、目の前にこの子がいる。長男が笑う。私も笑う。とりあえず、それだけでいいのだと思えた。

40歳を過ぎた今でも、絶望に絡め取られそうになることはある。そのたび、おまじないのように私は唱える。「幸福は再生する」と。

家族の形は変わり、私は現在、新たなパートナーと生活を共にしている。長男は今年、高校生になった。未だに自由気ままな彼は、よく笑い、よく話す。歩んできた道のりのすべてを正解だとは思っていない。それでも、私にとっては、次男も含めて、息子たちの笑顔が答えだ。

※引用箇所は全て、三浦しをん氏著作『まほろ駅前多田便利軒』本文より引用しております。