「第2回NHK紅白歌合戦」の放送当時小学生だった著者は、ラジオにかじりつきズキズキ、ワクワクしながら、笠置シヅ子の出番を待った(写真提供:Photo AC)

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今2023年に配信したヒット記事のなかから、あらためて読み直したい「編集部セレクション」をお届けします。(初公開日:2023年11月8日)*********2023年10月2日から放送が始まったNHK朝の連続テレビ小説『ブギウギ』。その主人公・福來スズ子のモデルは昭和の大スター・笠置シヅ子だ。ドラマは今週、趣里さん演じるスズ子が上京して作曲家・服部良一のモデルの羽鳥善一(演・草なぎ剛さん)と出会うところまで進んでいる。派手なアクションに長いつけまつげ、戦前は「スウィングの女王」、戦後は「ブギの女王」と呼ばれた彼女は小学生も虜にしたという。ジャズミュージアムちぐさの館長で、『鎌倉ジャズ物語』著者・筒井之隆氏に、シヅ子の魅力について綴ってもらった。

【書影】筒井さんの著書『鎌倉ジャズ物語――ピアニスト・松谷穣が生きた進駐軍クラブと歌謡曲の時代』

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『第2回NHK紅白歌合戦』に登場した笠置シヅ子

1952年1月3日、小学生だった私は『第2回NHK紅白歌合戦』をラジオにかじりついて聴いていた。紅白は第3回までは大晦日ではなく、お正月に放送された。私はズキズキ、ワクワクしながら、笠置シヅ子の出番を待っていた。時々電波の状態が悪くなって聞こえなくなると、木製の箱に入ったラジオをトントンと叩いた。たいていの故障はそれで治った。

白組の司会者は藤倉修一、紅組は丹下キヨ子だった。ひときわ大きな拍手と歓声が起こり、笠置シズ子が登場した。歌ったのは服部良一作曲、村雨まさを作詞(服部のペンネーム)の「買物ブギー」だった。

ご存じの方はわかると思うが、「買い物ブギ―」はかなり個性的な歌詞だ。近所に買い物に出た主人公が魚の種類を連呼して魚屋さんを困らせ、隣の八百屋では野菜の名前を並べたてて、「ああややこしい」と嘆いてみせる。

レッスンの最中にあまりに複雑な歌詞に思わず「ややこし、ややこし」とぼやいたのを、服部が面白がってそのまま歌詞に取り入れたという。あとに続くのが、「ちょっとおっさん」といういかにも大阪らしいフレーズだ。たたみかけてくるジャズ的なリフ(繰り返し)やフェイク(変化)を聞いて頭がぐちゃぐちゃになったところで、テンションを高めていき、絶頂に達する。

1拍の休止符が入って決め台詞となり、「あ―しんど」とスローダウンして終わる。テレビのない時代である。歌っている姿を妄想するしかない。すると、愛嬌のある下がり眉や、3センチもある(と言われていた)付けまつ毛や、顔の半分ほどに開かれたルージュの口紅や、ハイヒールの足を高々と上げて踊っている姿が強烈な存在感を伴って眼前に現れるのだった。

「大阪のおばさんとは?」に対するAIの答え

大阪で生まれ育った私は、子ども心にこのスラプスティック(ドタバタ)な歌詞とブギウギのリズムに完全に魅了された。

関西漫才的一人ぼけツッコミの言葉遊びが何度聞いても面白おかしく、放送禁止用語(当時は日常語)をものともせずに、多少の毒を含んだおおらかさでやりたい放題の笠置シヅ子に痺れていた。当時、笠置シヅ子38歳。私の近所にいくらでもいる「大阪のおばさん」だった。そんな身近な存在が、聞きなれた大阪弁で大スターに出世していることがうれしくてたまらなかった。


『鎌倉ジャズ物語 -ピアニスト・松谷穣が生きた進駐軍クラブと歌謡曲の時代』(著:筒井之隆/中央公論新社)

大阪のおばさんと一口に言うが、どんな特徴を指す言葉かはっきりさせたい。スマホのAI(チャットGTP)に質問してみたら、こんな答えが返ってきた。カッコ内は私の意見である。

AI.大阪のおばさんの特徴的なくせとして、次のような要素があります。

1、大阪弁を話します。(あたりまえや)

2、おいしい食べ物を楽しむことが好きです。(ただし、安くておいしいという条件が付く)

3、陽気で社交的な性格です。(明るいのはいいが、声がうるさい)

4、買い物が好きです。(デパートでいくらのものを、どこそこの店でこんなに安く買った、という買い物値段自慢を好む)

5、おおらかな心を持ち、人懐っこく、他人とのコミュニケーションを 楽しみます。(見ず知らずの子どもたちに、これおいしいでえ、と飴玉〈あめちゃん〉を配る癖がある)

AI.これらは一般的な特徴であり、すべての大阪のおばさんに当てはまるわけではありません。(やっぱり笠置シヅ子のことやないか)

戦前「スウィングの女王」、戦後「ブギの女王」

「ブギウギ」とは、1920年代のジャズ草創期、シカゴの黒人ピアニストたちが発明した演奏スタイルで、ブルースを引く際に左手で8拍子の反復リズムを刻み、右手でメロディやフレーズを弾くのが特徴とされる。

30年代後半になってダンス音楽として大流行し、戦後の日本でも駐留米軍のクラブで演奏された。これをいち早く歌謡曲に取り入れたのが、大阪生まれの作曲家・服部良一で、笠置シヅ子のために「東京ブギウギ」(1947年)、「ヘイヘイブギ―」(1948年)、「買物ブギ―」(1950年)などを作曲して大ヒットさせた。

これらの楽曲のヒットで笠置は一躍、国民的歌手になったが、決して時代の波に浮かれたアプレゲールな芸人ではなかった。見た目は普通の大阪のおばさんでも、基礎からきっちりと磨き上げた歌と踊りは超一流だった。

日本最長老の映画評論家で、淀川長治と並び称された双葉十三郎が映画雑誌『スタア』(1939年6月上旬号)に『笠置シヅ子論』を寄せた。同年4月、丸の内・帝国劇場で笠置シヅ子が所属する松竹楽劇団(SGD)のレビュー「カレッジ・スヰング」を観た双葉が、彼女のすばらしさをこのように称賛した。

「凡そショー・ガールとして、またスウィング歌手として、当代笠置シヅ子に及ぶものはないであろう。(中略)彼女の持つスウィング調、それは今までの我が国の歌手が容易に体得し得なかったものである。(中略)エラ・フィッツジェラルド、マキシン・サリバン、ミルドレッド・ベイリー、ルイ・アームストロング、かれらのスウィング調なるものは到底我が国には求められぬものと、半ば絶望にも似た気持ちとなっていた。が、笠置シヅ子はこの憂鬱を、希望と歓びに置き換えた」と絶賛し、将来「スウィングの女王」となることに熱い期待を寄せた。

双葉の観察眼のすばらしさは、彼女の歌と踊りの技量を認めるだけでなく、「彼女の持って生まれた小柄な体躯、そのちっぽけな体のこなしによって他の及び得ざる魅力を生む」ことや、「大阪弁の持つ一種独特の飄逸を肉体化している」こと、その例として、「彼女が舞台の隅にひょいと示すとぼけた味は、東京の人間にはおそらく絶対に持ちえないものであろう」ことに気づいたことである。

彼の予言通り、彼女はたちまち「スウィングの女王」と呼ばれるようになり、ショー・ビジネスのトップスターに上り詰めていく。戦前は「スウィングの女王」、戦後は「ブギの女王」と呼ばれ、戦争を挟んだ暗い時代に世の中を明るくし、多くの人々に生きる希望を届けたのである。


彼女の音楽は戦争を挟んだ暗い時代に世の中を明るくし、多くの人々に生きる希望を届けた(写真提供:Photo AC)

出生の秘密、初恋

笠置シヅ子(本名亀井静子)は1914年に香川県大川郡相生村(現・東かがわ市)で生まれた。産みの親は村の某家のお手伝いさんだったが、事情があってその家を追われ、子ども(シヅ子)を連れて実家に戻った。母乳が出ず困っていると、たまたま大阪から出産のため香川に帰省していた亀井うめという女性が男児(次男)を産み、母乳がよく出るので代わりに乳を含ませることになった。当時は地域社会での助け合いとして母乳代替の風習があった。そんな縁で情が移ったのか、シヅ子を養女にもらう話がまとまり、うめは生まれたばかりの次男とシヅ子を抱いて大阪に帰った。

本人が自分の出生の秘密を知ったのは18歳の時という。実の父親はすでに亡くなっていた。過去を恨まず、育ての親に感謝して、恬淡と生きた彼女を私は尊敬するが、後々、好きな男性に対して控えめな表現しかできない性格や、子どもを見るだけで涙するという過剰なやさしさを知ると、心の底に拭い去れない悲しみを抱えていたことを想像する。

初恋の相手は、ジャズピアニストで演出家の益田貞信という(ドラマでは「松永大星」という役名で、新納慎也さんが演じている)。当年26歳、慶應大学に在学中からジャズ・ピアノに傾倒し、腕前はプロ級だった。1938年4月、笠置は松竹楽劇団(SGD)にスカウトされて上京し、帝劇での旗揚げ公演「スヰング・アルバム」に出演した。その脚本を書いたのが益田だった。

父は貴族院議員の益田太郎男爵、祖父は三井財閥の創立者益田孝という立派な家柄だった。太郎は財界に身を置きながら芸術を愛し、帝国劇場の役員になり、太郎冠者のペンネームで喜劇や流行歌(「コロッケの歌」など)を作った。貞信は父や兄(3人の兄はともにジャズを研究し演奏するアマチュア・プレーヤーだった)の影響を受けて舞台芸術の世界に入り、帝劇に本拠を置く松竹楽劇団(SGD)の制作、演出を担当することになった。

そこで笠置と出会う。笠置シヅ子24歳。洗練された貞信の才能に心を惹かれた。貞信も笠置の歌と踊りを気に入り、好意を寄せた。しかし、二人の関係は淡い純愛のように少しも進展しなかった。貞信の家柄と銭湯を営む実家との格差に負い目を感じていたのかもしれない。翌年、貞信が松竹の大衆路線に嫌気がさし、松竹楽劇団(SGD)を離れて東宝に移動することになり、笠置にも一緒に移籍することを勧めた。

笠置は貞信の意に添うようにと、松竹の許可を得ることなく勝手に東宝と契約書を交わしてしまった。大変な騒ぎになった。この騒動を解決するために一役買ったのが松竹楽劇団で作曲・編曲・指揮を担当していた服部良一である。松竹と東宝の間に入って金銭で解決し、無事に笠置を松竹にとどめることに成功した。

服部のあまりの笠置への執着ぶりが誤解を生み、世間では二人の関係をゴシップにする一幕もあったという。笠置の思いとは裏腹に、貞信との恋はこうしてはかなくも消えてしまったのである。

「東京ブギウギ」で失意の底から立ち上がる

戦争が始まった。ジャズは敵性音楽として歌うことを禁じられ、派手な踊りや、長い付けまつ毛まで官憲の取り締まりの対象になった。笠置は仕事の場を失って不遇な生活を強いられていた。そんなさなか、2回目の恋に落ちた。

突然、笠置の大ファンだといって一人の青年が楽屋を訪れた。名前は吉本穎佑(えいすけ)、早稲田の学生で、俳優のような端正な顔立ちをしていた(ドラマでは村山愛助役で水上恒司が演じている)。当時20歳。この青年こそ吉本興業の創業者・吉本せい(2017年下半期放送のNHK朝ドラ『わろてんか』のモデルになった)の一人息子だった。

笠置シヅ子29歳、姉と弟のような気持ちで二人の交際が始まった。戦局が悪化してくると、先の読めない不安な日々の中で、愛は一気に深まっていった。穎佑が、当時は不治の病と言われた肺結核にかかった。そして終戦。早稲田を中退して吉本興業の仕事に専念していた穎佑は、1947年1月、病気治療のため兵庫県西宮の実家に帰ることになった。笠置は回復を祈りながら東京駅で見送った。

5月19日、穎佑が亡くなる。24歳だった。6月1日、笠置は女児を出産。穎佑の遺言でヱイ子と名付けた。9月10日、未婚の母となった笠置シヅ子は、服部良一作曲の「東京ブギウギ」をレコーディングし、失意の底から力強く立ち上がっていくのである。

現在放送中のNHK朝ドラ『ブギウギ』の第1週第1回(10月2日放映)は、帝劇の楽屋でヒロイン・スズ子(趣理)が赤ちゃんをあやしている場面で始まった。そこへ服部良一役の草なぎ剛が出番を知らせに入ってくる。淡谷のり子役の菊地凛子が赤ちゃんを受け取り、スズ子を励まして舞台に送り出す。歌ったのは出来上がったばかりの服部の新曲「東京ブギウギ」だった。

没後38年、初めてのドラマ化によって、もう知る人の少なくなった笠置シヅ子のすばらしい歌や踊りが、時代を超えて愛されるようになればうれしい。

(おわり)