根津神社のお膝元の旧町名。そしてこの堂々たる墨字。肝心の仁丹は看板下部に。(写真提供:二見書房)

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「現在では使われなくなった地名=『旧町名』は、古い家屋の表札やビルなど様々なものの中に発見することができる」と語るのは、16年以上、全国の旧町名の名残りを探し、その記録をブログなどで発信している102so(じゅうにそう)さん。ご著書の『旧町名さがしてみました in東京』より、今回は東京・文京区の旧町名にまつわるエピソードを紹介していただきました。102soさんいわく、「文京区は、本郷區と小石川區が合併して昭和22年に誕生した」そうで――。

【写真】徳川慶喜終焉の地看板。大正2年まで生きた慶喜は、年代的に近所の石川啄木や永井荷風とすれ違っていた可能性があるはず

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音羽町、東青柳町、西青柳町

<音羽町>

平成15年まで二見書房があったことでお馴染みの音羽ですが、平成14年に私が新聞配達していたことでもお馴染みの音羽(おとわ)です。


将軍綱吉の母で護国寺創建を発願した桂昌院の大奥女中「音羽」がこの地を拝領したことに由来。(写真提供:二見書房)

旧町名は音羽町で、護国寺を起点に9丁目まで存在していたなど、朝2時起きでカブに跨る当時の私には知る由もありませんでした。

20年後そこの出版社から本出すよ、と当時の私に伝えたい。

<東青柳町、西青柳町>

音羽町1丁目の西側が青柳連邦共和国、通称「西青柳」。資本主義市場経済はともかく講談社が設置した公園があります。


西青柳町。ほぼ講談社公園と首都高なので現地に旧町名はなし。なぜか遠く離れた豊島区で看板の文字に発見。(写真提供:二見書房)

一方、東側は青柳民主共和国、通称「東青柳」。秘密警察や西青柳への亡命が相次ぐこともなく閑静な街並みが残ります。


東青柳町。青柳も音羽と同様に桂昌院の大奥女中の名だが、配置的に音羽の方が位が高かったのか?(写真提供:二見書房)

音羽通りの直線さが東西青柳を分断する壁に見えただけのフィクションです。

久堅町、真砂町

<久堅町>

久堅(ひさかた)町は、はたらけどはたらけど生活(くらし)が楽にならないことでお馴染みの石川啄木の終焉の地です。


永久の町の発展を願って久堅町。町内の播磨坂は桜の名所。(写真提供:二見書房)

いまはマンションがあるこの場所で、亡くなるまでの8ヶ月間暮らしていました。

そもそも石川啄木はぢつと手を見る人程度の認識でしたので今回その生涯を調べたら、偉大なるクズ野郎でした(個人の感想です)。

妻を顧みず友人に金をたかり借金も払わずのよく言えば破天荒。もちろん、才能や作品に罪はありません。


『旧町名さがしてみました in東京』(著:102so/二見書房)

ただ、最初の上京を4ヶ月で挫折し父に迎えられ故郷に帰った境遇は共感できます。特に父に迎えられた点が。

私も大学進学時に利用した新聞奨学生という現代の蟹工船を1ヶ月で辞めた際に田舎から父が迎えに来ました。

文京区の販売所に来た父は所長に詫びた様ですがどのようなやりとりがあったか、朝2時起きで6時半まで朝刊配達し集金と拡張後昼2時から夕刊配達の日々に「いや大学いつ行くねん!」と突っ込むので精一杯な当時の私には知る由もありませんが、とにかく親は偉大です。

<真砂町>

文京シビックセンター横の春日町交差点。


昭和42年当時、この12階建の真砂アパートからはどのような景色が眺められたのか。(写真提供:二見書房)

東京ドームや講道館に行く人なら上空に浮かぶ「真砂アパート」の素敵なタイル文字を目にした経験があるはず。

昭和40年に消滅した旧町名の真砂(まさご)町を用いるこの都営住宅、外観的にも建設年は町名消滅前の相当古いに違いない。

と思いきや昭和42年でした。何と微妙に消滅後。

大塚窪町、第六天町

<大塚窪町>

平成14年3月夜ふと入った古ビル1階のパン屋。なぜかお店のおばあさんにパン数点を無償でいただく。


文京区内に存在した他の大塚シリーズは大塚仲町・大塚辻町・大塚上町・大塚坂下町そして大塚町。(写真提供:二見書房)

これが東京での最初の心温まる思い出です。

しかしその古ビルがまさか同潤会大塚女子アパートだったとは。そして、そのパン屋が実は三角サンドイッチ発祥の地だったとは。

いただいたパンはもちろんバターロール。

<第六天町>

おはようございます。今日の建もの探訪は、268年そして15代つづいた「家」。

ご家族は元征夷大将軍のご主人、奥さん、奥さん、奥さんそして21人の子供たち。

さて、どんな空間が待っているんでしょうか。まずは住まいのある町から拝見します。

小日向(こひなた)台地と小石川台地に跨るこの町は第六天(だいろくてん)町、現在の文京区春日そして小日向です。

何と言っても神田上水との高低差、いいですねぇ。さっそく住まいへ。失礼します。

新坂に接した3000坪に建つ1000坪の日本家屋の面影など感じさせない国際仏教学大学院大学。文字通りありがたい。

そして何と言っても敷地横を通る丸ノ内線。

地上の地下鉄、これがまた素敵なんですけど、敷地横の鉄道開通を嫌ってこのお宅に転居した経緯とのコントラスト、味わいがありますね。わかりました。

徳川さんのお宅跡いかがでしたか。ご主人が生きた激動の時代に思いを馳せる、そんな空間でした。

次回は徳川家から100m先の松平。かつての家臣・容保(かたもり)が暮らした家です。

駒込追分町、本郷區根津須賀町

<駒込追分町>

追分(おいわけ)とは道が2つに分かれる場所。そして私が初めて見た旧町名も「追分」、文京区駒込追分町です。


後方はかつて東大追分学寮という名の異空間だったような気がする。(写真提供:二見書房)

時は平成14年春。新聞奨学生を1ヶ月で辞めた私は、父に連れられ帰郷の啄木ルートを回避し文京区内で「**様方」なる住所を得ます。所謂間借りです。

狭い肩身に荒む心。上京即挫折で当てにした新聞奨学金も失い仕送りもない。安価な夜学とはいえ目下の学費と生活費に困り、選択肢は労働or餓死の2択。

社会経験が新聞配達のみの不安とちらつく餓死を飲み込み、配達物を新聞から郵便に変えることで無事生きることに成功しました。

そればかりか配達先の表札に「駒込追分町」という現町名とは異なる何かに遭遇します。これが私と旧町名との最初の出会いです。

もし選択を誤っていたら、旧町名も知らずいまも餓死しつづけていたでしょう。

追分とは分岐点。江戸町人にとって中山道と岩槻(いわつき)街道に分かれる旅の分岐点だったように、駒込追分町は私にとっても分岐点、まさに人生の「追分」です。

<本郷區根津須賀町>

京都市内でひんぱんに見かける仁丹(じんたん)広告付きの町名看板。


本家の京都仁丹看板。旧町名も仁丹看板のように地域資源としての活動や保存が広がればいいのに。(写真提供:二見書房)

京都の街並みに融合した経年劣化具合と京都特有の町名バリエーションも相まって、この「仁丹看板」は京都の隠れた名物です。

仁丹看板誕生の背景には明治末期の野外広告への法規制があります。

森下仁丹創業者は、広告規制の例外規定「公益ノ為メニスルモノ」に着目し、町名を付すことで位置情報を示す「公益性」を担保した屋外広告を生み出します。

大正元年ごろから木製の広告付き町名看板が京都市内に設置され、これが仁丹看板の始まりです。

なお、近畿大学井出文紀准教授の論文によると、戦前は東京に9万枚もの木製仁丹看板が設置されていたそうです。残念ながら、震災と戦災で現存は1枚もないとされています。

そして、なぜ根津須賀(ねづすが)町の貴重な紙面を割いて京都の話を繰り広げているのか。

そう、根津須賀町で木製の仁丹看板が発見されたのです。ただし真偽は不明。

正式な仁丹看板か否か、森下仁丹の判断を待ちたいと思います(その後、正式に仁丹看板認定されたようです。よかったね!)。

竹早町

<竹早町>

竹早町で「分離」といえば竹早高校と東京学芸大付属竹早中の校舎問題があります。


旧町名が公園の門という大変レアなケース。旧町名さがし初心者が現場勘を養うのに大変おすすめ。(写真提供:二見書房)

両校はもとは同じ府立で校長も校舎も共用していたものの、都制により都立と国立に分かれ校長も違うまったく別の学校に。

その際に敷地も校舎も国有化されたことで以後20年間都立が国立に校舎を間借りする歪な関係となります。

部活や行事に制約が掛かる屈辱の学校生活。

「独立した校舎を!」

昭和40年に生徒会長が校舎問題解決を公約に掲げ、都への請願やマスコミへの提起がやがて世論を動かします。

昭和42年に両校間の校舎分離独立協定の締結、そして昭和45年遂に竹早高校は校舎独立を果たしました。

校舎も校門も分離した両校は現在、校門が隣り合う不思議な光景を残しています。

※本稿は、『旧町名さがしてみました in東京』(二見書房)の一部を再編集したものです。