増田 弘(ますだ・ひろし)/立正大学名誉教授。1947年神奈川県生まれ。東洋英和女学院大学教授、同大学副学長、立正大学法学部特任教授、石橋湛山研究センター初代センター長などを歴任。『石橋湛山研究 「小日本主義者」の国際認識』『石橋湛山 リベラリストの真髄』など多数の著作がある

今年6月、政界に超党派の議員連盟「石橋湛山研究会」が発足した。死去から半世紀が経ったにもかかわらず、その主張や生き方に学ぼうとする動きが起こるのはなぜなのか。

『週刊東洋経済』11月18日号の創刊記念号特集は「今なぜ石橋湛山か」。豊富なインタビューや寄稿を基に湛山の軌跡を振り返る。


1946年、吉田茂内閣の蔵相として政治家の第一歩を踏み出した石橋湛山は、それから10年で首相に上り詰めた。

経済政策をめぐるGHQ(連合国軍総司令部)との対立や、自民党内の反対を押し切っての中国やソ連への訪問など政治家としての言動は現在も語り継がれる。はたしてどのような人物だったのか。『政治家・石橋湛山研究』の著者、増田弘・立正大学名誉教授に聞いた。

──ジャーナリスト・湛山はなぜ政界に身を投じたのでしょうか。

政界入りの背景には、日本の再建に貢献したいという強い気持ちがあった。湛山は「戦後の日本を立て直すには、微力ではあるけれども、自分が政界へ出なければならん」とその理由を語っている。

小日本主義で日本の発展に貢献

日本の再建において経済復興が大きなカギとなる中、湛山はジャーナリストとして培ってきた知見、信念を役立てたいと思っていた。

戦前から彼は、植民地がなくとも経済的に、平和的に発展できるという小日本主義を訴えてきた。植民地を失った今、その理論の下で日本の発展に貢献できると考えたのだろう。

また、金解禁論争で時の浜口雄幸内閣の政策を変えられなかった経験から、ジャーナリストが政府の施策に及ぼす影響力に限界を感じていたことも後押しした。

昭和初期の金解禁をめぐる議論の中で、湛山は金と円の交換レートを足元の経済状況に合わせた新平価とすべきだと主張していた。だが、浜口内閣の井上準之助蔵相は従来レートの旧平価で金解禁をすることを決め、失敗してしまう。その結果、軍部の台頭やテロの頻発をもたらした。

この苦い経験が湛山に、自ら政治家となり現実の施策に自身の知見を生かすべきだと決意させるきっかけとなった。

すき焼きが結んだ縁

──湛山は鳩山一郎率いる日本自由党公認で衆議院議員選挙に立候補しました。結果は落選でしたが、無議席で蔵相に起用されます。

制度に鑑みれば、国会議員でなくとも国務大臣にはなれた。ただ、そうした例はあまり多くない。やはり吉田や鳩山から経済知識人として信頼を得ていたからこそ、内閣の要である蔵相に任命されたのだろう。


湛山、吉田、鳩山の3人は戦前からつながりを持っていた。彼らを結び付けていたのは、実はすき焼きだ。湛山はすき焼きが大好物で、戦時中でも牛肉を入手できる極秘ルートを持っていたそうだ。鳩山、吉田を東洋経済新報社に招いて、すき焼きでもてなしたという話が残っている。

すき焼き効果もあるだろうが、金解禁論争の際の湛山の活躍は吉田らも耳にしていたはずだ。このときに、湛山は高橋是清ら大臣クラスに呼ばれ、議論を戦わせたという記録がある。エコノミストとして政界でも名をはせていた湛山だからこその入閣だった。

──湛山はGHQと対立した際、淡々と政策の理を説いています。また対立の結果、公職追放を受けても堂々と抗議文を提出し、マッカーサーの監督責任にまで言及しました。湛山はなぜこうした毅然たる対応を取れたのでしょうか。

湛山の基本姿勢は実践にある。湛山は日蓮宗の僧侶の家に生まれた。日蓮宗の特色は多々あるが、あえて挙げるとすれば実践。相手が間違っており、自分が正しいと思うときには、どんどん相手を説き伏せていく点にある。

日蓮宗の影響に加え、早稲田大学時代に著名な哲学者、田中王堂から学んだプラグマティズムや功利主義などの哲学も、実践を重視する湛山の姿勢に大きな影響を与えた。湛山は、自身の考え方に特徴があるとすればそれは王堂哲学の賜物だと語る。

実践の先に目指すのが、仏教で掲げる世界平和だ。その実現のために、不合理な行為にはGHQなど時の権力者へも敢然と戦いを挑む。宗教的倫理を支柱とし、言論界で経済や政治学などの学識と議論のすべを身に付けていた点が、ほかの政治家と一枚も二枚も違う。

──日中米ソ平和同盟構想を掲げ、批判を受けながらも中国を訪問した点にも湛山の胆力を感じます。

小日本主義を実践する際に大きな障害となったのが冷戦だ。それを解決するためには日中米ソで話し合って提携していくしかないのだと湛山は訴えた。

「日中米ソ平和同盟と言っても、社会からは一笑に付されるだろう」と湛山は言う。

ただ、続けてこう説明する。なぜ日中、日ソの関係が悪いのか。それは台湾や北方領土へ米国が関与することを中国、ソ連が恐れているからだ。台湾問題にしろ、北方領土問題にしろ、解決するためには日中米ソの4カ国で話し合うしかない。そうすれば極東問題は解決し、アジア全体、ひいては世界の平和につながる。だから日中米ソ平和同盟をやるしかない、と。理想論ではなく、極めて現実的な構想だ。

周恩来首相と会談

訪中して周恩来首相と会談した際、湛山はこの構想を打ち明け、賛成を得た。さらに極めて重要なのが、武力でもって台湾を統一することはしないという約束を取り付けたことだ。ところが池田勇人内閣はポスト冷戦時代を理解できず、中国との関係を改善できなかった。残念ながら湛山の平和構想は形にならなかった。


第1次訪中で周恩来首相と会談した(写真:毎日新聞社)

──冷戦を利用して日本の国際的優位性を高めようとした岸信介元首相とは対照的です。

岸の頭にあったのはポツダム体制の否定だ。そのために冷戦を利用し、米国と対等な関係を築こうとした。台湾の蒋介石と面会した際には「大陸反抗」をたたえた。蒋への賛辞というより米国への「おべっか」。冷戦を終わらせようと奮闘した湛山とは正反対だ。

湛山にも弱点があった。権力に淡泊で政治的駆け引きができなかった点だ。そこが政治家湛山の限界だが、同時に、没後50年経っても人々を引きつける魅力であるのかもしれない。

(聞き手:大竹麗子)


(大竹 麗子 : 東洋経済 記者)