高価なものとそうでないものを見分けられる人は、何が違うのか。料理研究家の土井善晴さんは大阪の料亭・味吉兆(編注:吉は土に口)で働いていた20代の頃、5000円の器と50万円の器の違いも分からないほど自分は未熟だったそう。しかし、「どんな人でも『いいもの』を見分けられる方法はある」という――。

※本稿は、土井善晴『一汁一菜でよいと至るまで』(新潮新書)の一部を再編集したものです。

写真=iStock.com/riya-takahashi
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/riya-takahashi

■懐石料理には食文化の本質が残っている

「懐石料理」は、その元に当たる「茶の湯」を嗜(たしな)むとさらに楽しめるものです。茶の湯は敷居が高くて、当初は私にも近寄りがたさがありました。

茶は、茶をいかに美味(おい)しく味わうかを目的としますが、ご縁のある人々が一つの席に集まり、季節の移ろいを認め、道具の取り合わせの美を共有することで、深く交わり、浮かび上がる情緒を味わう場なのです。むしろ、それを難しいことにして遠ざけてはもったいない。

何かを学び覚える習得以上に、ものの考え方や日本的なものの捉え方というものをつかむためと考えるとよいかもしれません。

古来暮らしにあったよきものを思い出し、心に置くことができるのはとても豊かなことだと思います。それは役に立つものです。

懐石料理は、今では高級料理屋でしか食べられないものになっていますが、家庭の手料理のもてなしを原点とする茶の湯に由来する伝統として、食文化の本質が残っている場でもあるのです。

■バラバラの長さのツクシでよい

湯木(編註:貞一、「吉兆」の創業者)が盛りつけを終えて、整った料理を一瞬じっと見ているかと思ったら、上からぐしゃっと料理を押さえ込んで崩し、「よしできた」と言った。そんなエピソードを先輩に聞きました。

味吉兆(編註:「吉兆」の暖簾分け)のご主人の盛りつけは、温めた大鉢に鍋をひっくり返して入れて、少し手を入れて直す程度で完成することもありました。

春の向こうづけを盛るために、数本の土筆(つくし)をあしらうにも、長さを切りそろえてはいけません。自然の土筆は短いもの長いものがあるでしょう。

銘々の鉢に、炊き上げた芋、蛸(たこ)、南京を盛りこむにも、一人分ずつ数を読んできちんと盛ってはいけません、大まかにつかんで盛り、少し手直しする程度にとどめます。包丁できれいに豆腐を賽(さい)の目に切りそろえるよりも、ランダムにお玉を使って掬(すく)い取ります。

この違いは何かといえば、それは「お茶があるか」「お茶がないか」です。

茶とは、茶の湯のことで、茶の美意識で判断するということです。茶の美意識とは言っても、善と偽善を判定しているように私は思います。人間のすることはほどほどにして、自然を信じる態度に現れます。

■「お茶」とは自然を尊ぶ心

湯木貞一の料理のよりどころは、茶事の懐石です。茶とは、自然に任せられるものは任せるべく、あからさまな作為や生々しさを嫌います。細やかな自然の移ろいをよく見て、認め、もの喜びすることです。人のためと思ってやった行為といえども、その見返りを願っては偽善となるでしょう。そうした偽善心は、作為として料理に残るのです。普遍性のない人間の些末(さまつ)な工夫なんて、なにもおもしろくないのです。

新しい試みでも場に対する工夫にしても、そこに根本である「茶」があるかないかを問題とします。湯木や中谷(編註:文雄、「味吉兆」初代)は良いものを「お茶がある」、ひと目見てダメなものを「お茶がない」と一瞬で判定しました。自然な振る舞いやさりげなさを私たちは好むようです。わざとらしさをみると、臭い芝居となるのです。

ですから「お茶がある」とは自然を尊ぶことに尽きる。自然には同じものなどなに一つありません。いつも変化し、それぞれが違い、それぞれに美がある。一つ一つを揃(そろ)える努力よりも、一つ一つの美を優先するということですね。茶があるかないかという基準を持っていると、良い悪いが自(おの)ずと見えてきて分かる(判断できる)ようになる。「お茶がある」とは、他の言葉では代替しがたい、日本らしい情緒がある言葉です。

写真=iStock.com/paulacobleigh
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/paulacobleigh

■いちいち見とれてしまう料理

味吉兆で、お料理が盛り込まれた器がわきとり(盆)に乗せて運ばれていく様子を眺めて、えらいきれいなものやと感じ入ったものです。慣れるまでは、いちいち見とれていました。吉兆の料理は、月々の献立に日本の行事や故事をひとつずつ取り込み、趣向を凝らすので、季節の移ろいとともに景色が変わります。

趣向とは、季節の節目にあるさまざまな祭りごとや故事を、料理に織り込んで表現することです。例えば、「月に見立てた金属のプレートがある。それを盆に乗せ、ススキやハギを飾りにして、料理の一品を置く。盆の上に秋の小宇宙ができあがる」(東京吉兆ホームページ「白吉兆 湯木貞一の想い語り」より)。

このように四季の風情をお料理にするのです。

そのために季節や料理の趣向に応じて、松葉、椿、ゆずり葉、菖蒲(しょうぶ)、青もみじ、梶の葉、朝顔つる、柿の葉、笹、青竹、氷(塊・かき氷)、蓮の葉、黒文字、ほおずき、赤芽柏、柿の照り葉、菊花、柿がま、柚がま、川石、大アワビの殻、炭など、自然のものを季節に応じて用意するのは、若い料理人の役目でした。

新古の陶磁器や漆器はもちろん、かわらけ、クリスタルガラス、銀器、銅網、青交趾(こうち)など際立つものを見立てて生かし、物と物の関係性で調和の美を潔く表現し、自然を切り取って魅せる。そのように湯木がつくりあげた趣向を施した日本料理は、それまでだれも見たことがない料理となりました。

■日本一美しい盛り付けとは

我が家に『吉兆料理花伝』という、奈良の写真家、入江泰吉が吉兆の茶懐石を撮りおろし、グラフィックデザイナー林忠が装丁した豪華な本があります。今見ても新鮮でページをひらけば身が引き締まります。

繊細で華やかな日本らしい料理写真を折々に眺めると、汚れてしまった自分の目が洗われるかのようです。その本には湯木の言葉通りの「世界の名物 日本料理」が表現されているのです。

また、日本料理の美の表現を倣った一冊があります。京都の「辻留」先代主人、辻嘉一(1907〜1988)の見事な『盛付秘伝』(柴田書店、1982年)です。私自身は実際に辻嘉一さんの料理を見たことがありませんが、この本の料理写真を見ると、奇をてらったことはせず、日本らしい季節の食材を取り合わせる技は見事です。

なにしろ、能楽のシテ、ワキといった言葉を用いて、その関係を引用しながら、盛り付けの情緒を一つ一つ解説し、綿密に言語化する話法は他にないでしょう。しかも美の作り方が絶妙で、作為を感じさせません。

真っ直ぐに並べるにも、真っ直ぐではない。平行にするにも平行ではない。季節感を踏まえ、寸法、包丁、角度、調和性、形にまったく隙がない。その調理の技術は、意図した料理があるために成立するのです。その方法論を超えて美しいのが辻嘉一の料理です。論より証拠、機会があれば、ぜひご覧いただきたいと思います。

これを見る限り、盛り付け日本一でしょう。和食の場合、美しさは間違いなくお料理の質と対応するものですから、味わうまでもなく美味であることは疑いありません。

湯木貞一といい辻嘉一といい、この時代に名を馳(は)せた料理人の料理には顔がありました。料理をみれば、だれの料理かがわかったということです。それは独自の料理哲学という裏付けを持って、初めて実現したことだと思います。

■自分は「見えない」ことを知った20代

味吉兆では茶事の仕事を数多く経験できました。本来の茶事では、主題(テーマ)に基づいた道具立てをします。その扱いに長(た)けた道具屋さんが、茶事に備えて道具の取り合わせなどの支度を手伝いに来られます。その関係はさまざまだと思いますが、亭主と道具屋は互いに補完しあう関係にあるのです。

バブル時代の頃、茶事の仕事を手伝っていたときに使っていたとある高麗茶碗が、うん千万は下らないという話を聞きショックを受けました。値段自体の驚きもありますが、私にはその茶碗の価値がわからなかった、自分の目にはその違いが見えなかったのです。

例えば、5000円の器と50万円の器の違いはなんであるのかがわからない。誰かが「これはええな」と言った途端によく見える。後年そういうことがなくなったとき、その理由がわかりました。人の言葉に影響されて感情の変化が起きるうちは未熟なのですね。いいものは話を聞く前からいいものなのです。

そんなことがあって、自分の目は「見えない」ことを知るのです。何も見えていないと自覚したと言っていい。24、5歳の頃でした。

結局のところ「これはいいものだ」と決める人がいます。ですから、「見えるか/見えないか」の基準は、よいものだと「わかったもんの勝ちや」と思いました。

見えないうちは話にならない。見えるようになりたい。で、どうすれば見えるようになるかといえば、それは、ひたすらいいものを見るしかない。とにかく、最高のものを見るという経験が必要です。

■とにかく一級品を見続けた

「そのためには買わんとあかん」「失敗せんとあかん」と、教えてくれる人がありました。また、「自分は嫌いだけど、これはいいものですね」「これはあまり良くないものですが、自分は好きだ」という「好きなもの」と、実際に「善いもの」とを、区別して見ないといけないこともわかってきました。とにかくいいものを見ないといけない。しかも、雑多なものよりも、一級品のいいものを見ないといけません。

それからというもの、時間があれば、大阪中之島の東洋陶磁美術館、天王寺の大阪市立美術館、京都の国立博物館などに通い始めました。美術館の会員証を持って、少しでも時間があれば、とにかく見る。

当時は今よりも美術館は空(す)いていました。今では美術館も企画展が多くなりましたが、当時は、たとえば国立博物館には本当にたくさんのものが常設で並んでいたのです。美術館に通うようになって一年経ったとき、なんとなくいいなと感じるものが増え、一年前は見えていなかった美に気づく。それからまた一年して、一年前はわかっていなかったと気づく、その繰り返しです。

京都や大阪の画廊や道具屋にも興味を持つようになって通いました。30年以上も前のことです。ただの若いもんでも、どこに行っても親切にいろいろなことを教えてくださるものです。京都の「鉄斎堂」さん、古代裂の「ちんぎれや」さんなどは、今も親しみを感じています。

高台寺さんは一般に開放されていませんでしたが、外から覗いていたら庵主さんが声をかけてくださって、招き入れてくれました。ねね(秀吉の正妻、高台寺はこの北政所の菩提寺)のお墓の扉の裏にある蒔(まき)絵のことやらお墓の上のことやら全部説明してくれはってね。京都は若い人にとても親切にしてくれはるとこで、感謝しています。

■やがて好き=良いモノとなるように

初めは、見えるようになりたいと思う気持ちでしたが、だんだん見ることが楽しくなったと思います。そんな話を糸井重里さんと対談でしていたら「で、見えるようになったんですか?」と、聞かれました。咄嗟に「自分なりに楽しめるようになった」と答えましたが、不十分ですね。

土井善晴『一汁一菜でよいと至るまで』(新潮新書)

経験を積めば見えるようになるのは間違いないようです。高麗茶碗でも、見ているうちに高麗茶碗の美の様式をつかめるようになる。それが普遍的価値の共有です。

目でしっかり見たものは心地よさとして体に残り、それがどんなものかを人から教わり、話すことで検証できます。そうした経験と学びの繰り返しをしていると、体の中に美の枠組みができてくるのです。そうした物の美しさが価値として評価されているものは、お金では評価されていなくとも良いとわかる。

そして、やがて好きなものと、良いものが一致してくるようにも思います。一瞬でわかるというものもありますが、その時々で自分自身が冷静でない時もあるので、しばらくそばに置いておく、しばらく見ないでしばらくして観る、ことでわかるものもあると思います。良いものは秩序を促すのです。

■美は至るところに現れる

自分で見えるとか見えないとか、日本人はだいたい言わないものですが、フランス人は上手に言葉にしますね。言葉に換えることと、見ることとは別の技術ですが、やっぱり見えないと言語化もできません。見える/見えないなんて、他者と比べることもできません。でも、それを知ろうとする努力は、いつか実って楽しめるようになるもの。間違いなく人生を豊かにするものです。

最近では、どこに行っても、どこにいても、綺麗やなあと思うものを見つけられる気がしています。ものに共感できる感覚を持ち、感動できることは幸せです。

自分をわきまえてしっかり生きていれば、美は至るところに現れると思います。もちろん、自分なりに、です。

日常生活で散歩していても、電車に乗っていても、きれいだなあ、いいなあ、素敵だなあ、を、いつも楽しんでいます。果たしてそれが、見えることなのかは、未(いま)だよくわかりません。

----------
土井 善晴(どい・よしはる)
料理研究家
1957(昭和32)年、大阪生まれ。芦屋大学教育学部卒。スイス、フランス、大阪で料理を修業し、土井勝料理学校講師を経て1992(平成4)年、「おいしいもの研究所」を設立。十文字学園女子大学特別招聘教授、甲子園大学客員教授、東京大学先端科学技術研究センター客員研究員などを務め、「きょうの料理」(NHK)などに出演する。著書に『一汁一菜でよいという提案』(新潮文庫)、『料理と利他』(共著、ミシマ社)、『くらしのための料理学』(NHK出版)など。
----------

(料理研究家 土井 善晴)