行きはよいよい帰りは…どうして”怖い”のか?童謡「とおりゃんせ」に込められたメッセージ

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♪とおりゃんせ、とおりゃんせ……♪

筆者も子供の頃からよく唄った童謡「とおりゃんせ」。「通りなさい」という意味ですが、ここを通って「どこに、何をしに」行くのでしょうか。今回は「とおりゃんせ」の歌詞を通して、子供と神様との関係について紹介したいと思います。

天神様へお参りに

まずは、「とおりゃんせ」の歌詞を通しで確認しておきましょう。

「通りゃんせ 通りゃんせ ここはどこの細道じゃ 天神様の細道じゃ ちっと通して下しゃんせ 御用のない者通しゃせぬ この子の七つのお祝いに 御札を納めに参ります 行きはよいよい 帰りは怖い 怖いながらも 通りゃんせ 通りゃんせ」

どうやら、誰かと誰かが話しているようですが、このままだとちょっと判りにくいので、ざっと意訳しつつ、セリフを二人に振り分けてみましょう。

甲「こんばんは、どうされましたか?」
乙「お尋ねしますが、この参道の先には、どんな神様がいらっしゃいますか?」
甲「天神様ですよ」
乙「そりゃちょうどいい。ちょっと通して下さい」
甲「用がなければ通せません」
乙「(傍らにいる子供を指して)この子の七つのお祝いに、お守り札を返しにいくのです」
甲「それはおめでとうございます。しかしお参りに行くのはいいですが、帰り道はご用心下さい。それではどうぞ……」

単に直訳してしまうと、最初は無条件に「通りなさい」と声をかけておきながら、後から「用がなければ通せない」と言うのは矛盾するため、恐らくこの甲は道の番人的な存在で、挨拶として声かけをしたものと解釈。

そして、乙は子供を連れて神社を探していたらしく、七つのお祝いとは七五三のこと。子供が七歳に成長するまで守ってくれた神様へのお礼参りと、お守り札の返納に行くのです。

人間の子として「生きる」ことの恐ろしさ

それはいいのですが、どうして「帰りは怖い」のでしょうか?

昔は現代と違い、生まれた子供がすぐに死んでしまうことは、そう珍しくもありませんでした。

だから、ある程度身体がしっかりと育ち、抵抗力をつける7歳までは「神様の子」と思うことにして、死んでも「元々神様の子なんだから、神様の元へ帰っただけなのだ」と解釈することで、自らを慰めていたのです。

しかし、どうにか7歳まで成長したら、もうその子は「人間の子」となり、神様の子ではなくなります。

七五三とは、いわば「この子を人間の子として、私の子としてお認め下さい」と神様にお願いする儀式で、子供の魂をその身体とこの世に定着せしめることが目的でした。

かくして7歳になった子供は、もう神様も守ってくれません。

自分の力で、そして親子や家族、地域と助け合い、共に生きていかねばならないのです。

そのことを実感するにつれ、帰り道はどんどん恐ろしくなっていく。

でも、恐ろしくても生きねばならない。

「さぁ、お通りなさい……お通りなさい……」

この唄には、そんなメッセージが込められています(※諸説あります)。

終わりに

この考え方は、地方によって「つばなれ」とも呼ぶそうです。

年齢を「ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ、いつつ、むっつ、ななつ、やっつ、ここのつ」と数え、「十(とお)」でようやく「つ」と付かなくなる=離れることから、子供が10歳になることを指しました。

「(前略)やーっつ、ここのーつ、とお
「つ」の付くうちは神様の
いやいや、やっぱりうちの児ぞ
つばなれせんでもうちの児ぞ」
※岡野雄一『ペコロスの母に会いにいく』西日本新聞社、2013年2月10日、第十一刷

いくつであろうが、水子・蛭子であろうが、我が子を失った者の悲しみは、いつの世も癒し難いもの。

「とおりゃんせ」と口にするたび、その悲しみが少しでも癒されることを、先立った子供たち、そしていま元気に生きようとしている子供たちの幸せを願わずにはおれません。