テレビ朝日「ビートたけしのTVタックル」(23日放送分)では「プロ野球選手の第2の人生を徹底調査」と題し、西武ライオンズのドラフト1位(1996年)で、当時は清原和博氏が付けた背番号「3」を受け継いだことでも話題となった玉野宏昌氏の現在を紹介した。

18歳で背番号「3」を受け継いだ玉野氏だったが、入団後2年間は2軍生活。1軍に昇格することもあったが、目立った活躍もできないまま、4年後には大物助っ人トニー・フェルナンデスに「3」を明け渡す格好となった。その後はトレードで中日に移籍するも、1軍で出場することなく27歳で戦力外通告を受けている。

あれから10年、現在は都内にあるニッセイロールペーパー社で営業を務める玉野氏。引退後は、時給900円でデパートの惣菜売り場で働いたり、宅配ドライバーに転職しては8カ月で退職するなど、結婚して家族を持ちながらも安定した仕事に就くことができなかったという。

「野球をやってる方達はずっと携わっていければ良いんですけど、自分みたいにそこまで結果を残せなかった選手は、そういう道もなかなかないですし」。こう振り返った玉野氏は「野球とは違った仕事で他のこともできるんだぞというところを見せたかったのかもしれないですね」と現在の会社に勤めた理由を述べ、営業という職種には「結果を出して評価される。野球選手と同じです。サボっていようが何していようが結果が出たらそれでOK。でもサボってたら結果はついてこないので日々精進」と語った。

現役時代は、それでも最高年俸2000万円の年もあり、結婚前の妻とは「豪遊ってほどではないですけど、しょっちゅう外食はしていた。二人で風を切って歩いていた」と苦笑いを浮かべた玉野氏。夫人も「レストラン行けば贅沢して、欲しいものがあれば買って貰ったり。調子乗ってましたね、二人とも」と笑った。

また、背番号3については「イヤでしたね。グラウンドコート着てたんですけど、中に3番のユニフォームを着ているじゃないですか。それを脱ぐのが本当にイヤで」と語ると、玉野氏は、背番号を剥奪された時のことを「ホッとした。肩の荷が一気におりた。危機感を感じないといけないんですけど、楽になった」と本音も――。

さらに戦力外通告を受けた際のことは「とうとう終わったかっていう感じと、もっとできたんじゃないかっていう自分もいたり、よく頑張ったんじゃないかっていう自分もいたり。そういう思いが駆け巡って変な気持ちでした」と振り返ったが、妻と息子と送る現在の生活は「幸せ」としみじみと語った。

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