根本陸夫伝〜証言で綴る「球界の革命児」の真実
連載第6回

証言者・土井正博(2)

 1961年に当時スカウトだった根本陸夫の誘いで高校を中退して近鉄に入団した土井正博。そして、その翌年から根本はコーチとなり、土井の指導にあたった。「ゲーム前は胃袋を空っぽにするぐらいじゃないと、脳に鮮明なものが出てこない!」。根本が、まだ若かった頃の土井に言ったときの言葉である。今から半世紀前の日本球界に「脳」という言葉を使い、コンディショニング面も指導する人材がいた事実に驚かされる。土井は「それだけ先見のあった人」と言うが、根本は1966年限りで近鉄を退団。奇しくも、土井が初めて4番に固定された年だった。翌67年、根本は広島のコーチに就任。68年からは監督になった。リーグは違ったが、土井正博は広島に行くたびに必ず根本のところに挨拶に行ったという。「広島に来ないか?」と誘われたこともあったが、土井は「最初にお世話になった近鉄で」という思いが強かった。ところが、時は流れて1974年のオフ、土井はトレードで太平洋クラブ(現・西武)に移籍。太平洋クラブは西鉄を買収した球団だったが、経営状態は上向かず、76年末にはスポンサーがクラウンライターに変わる。すると翌77年のオフ、根本がクラウンライターの監督に就任。土井と根本は再び同じチームで野球をすることとなった。

■1点を取りにいくような野球はしなかった

「最初に根本さんが(クラウンの)監督になると聞いた時は、『また殴りとばされるな』という思いだけですよ。そしたら根本さんが、『オレも丸くなったからな。お前、心配せんでもいいぞ』と(笑)。一緒のチームになったのはまったくの偶然でしたけど、なにかより一層、関係が深まったというんですかね。僕はその年に結婚したのですが、根本さんが仲人で、子どもの名付け親でもあるんです」

 プライベートでも親密な関係となった根本と土井だが、監督と選手として付き合うのは初めて。根本は指揮官としてどうだったのか。

「作戦は下手でしたね(笑)。下手というか、ものすごく大雑把でした。『ミーティング? そんなもんはいらん。お前ら、感性で野球せえ!』という人で。要するに、自分が監督になったつもりで、『この場面、監督だったらどうするか考えろ。いろいろなことを考えながら野球しろ』と。そして『その考えと、オレが出すサインがマッチしたらいける』というわけです」

 根本の野球――作戦はなしに等しかった。選手たちの感性と自らが出すサインが合致して成功すれば、大量点を取れるという野球。1点を取りにいくためにバントで送るような考えはなかった。だから、サインなど出るはずもない場面で、ベンチばかり見る選手に対して根本は激しく怒り、こんな言葉を浴びせたという。

「読めないヤツだな、お前は。こんなところでサインを気にしていたら、自分のリズムで打てないだろ。サインが出る時は出るんだから、それがどういう場面なのか、もっと勉強してこい!」

 とにかく「勉強しろ!」が口ぐせだった。事あるごとに、「社会勉強しろ!」「野球の勉強をしろ!」と繰り返した。土井にとって、根本が言ったある言葉が特に印象に残っているという。

「社会勉強して大人になっとるか? 大人の考えにならんことには、いくら野球を考えてやろうとしたって無理だ。もっと大人になれ。一般常識人になれ。野球バカじゃダメなんだ!」

 1978年、根本率いるクラウンライターは前期4位、後期5位。トータルでは51勝67敗12分、勝率.432で5位。オフには西武への身売り話が出て、本拠地を福岡から所沢に移転するとなった時は、選手たちから反対の声が上がった。だが、そんな中で土井は先頭に立って、「ワシは行くで。ワシは野球がやりたい。野球をやるんやったらどこでもいい」と言ったという。

「それもね、根本さんが監督を続けるとわかったからなんです。『オヤジ、やるの?』と聞いたら、『うん。あっちへ行っても、もう何年か頑張る』と。あの時、他の主力もそうでしたけど、僕もよその球団から話をもらっていましたので、監督が根本さんでなければ他のチームに行っていたと思います」

■テレビ埼玉に行って、西武の野球を3年間見続けろ

 選手として晩年に差しかかっていた土井は、西武で3年間プレイし、1981年限りで現役を引退した。あと20本のヒットを放てば、長嶋茂雄の通算2471安打を超えられただけに未練はあった。しかし、同年で監督を退任する根本から、こう言われたという。

「お前ひとりがまだチームにいることによって、秋山(幸二)とか伊東(勤)がゲームに出られなくなる。お前も昔、18歳で出してもらったことを考えてみろ。若い選手をひとりでも育てようと思えば、ベテランがユニフォームを脱ぐことがいちばんいいんだ」

 その言葉を聞いて、土井は何も言えなくなった。ただ単に「もう辞めろ」と言われたら、納得できなかったが、自分自身の原点を引き合いに出されたら納得するしかなかった。それと同時に、引退後の道も用意されていた。「オレも監督を辞めてフロントに入るから、お前も3年間、解説をやれ!」と命令が下ったのだ。

「最初、解説って、東京か大阪の、それなりにええところのテレビ局かと思っていたんです。自分としては地元に帰りたい気持ちもあったので、『なるべく大阪のテレビ局でお願いします』って泣きついたんです。そしたら『バカたれ! テレビ埼玉だ! それで西武の野球をずーっと見とけ!』と。でも、その時は、いずれコーチをさせるとか、そんな話は全然言ってなかったんです。『野球バカじゃダメなんだから、勉強して来い!』と言うだけで(笑)」

 そして根本は土井を局に連れて行くと、社長と面会して「コイツを預かってください」と頼んだ。キャンプ視察も西武に限られ、実際に3年間、土井は西武を間近で見続けた。そして1985年、土井は西武の二軍打撃コーチに就任。根本から「お前にふたり、おもちゃをやろう」と言われ、大久保博元(1984年ドラフト1位)、田辺徳雄(同2位)の指導を任された。ちなみに、「おもちゃ」とは、「どう指導しようが、どう扱おうが構わない」という意味だった。

 そして翌86年、土井は一軍打撃コーチに昇格。今度は超大物ルーキー。清原和博と出会うこととなる。

(つづく)

=敬称略

【人物紹介】
土井正博...1943年12月8日、大阪府生まれ。1961年に大鉄高(現・阪南大高)を2年で中退して、近鉄に入団。1974年オフに太平洋クラブライオンズ(現・埼玉西武ライオンズ)に移籍し、1981年までプレイ。通算2452安打、465本塁打。引退後は解説者を経て、西武などでコーチを務め、清原和博らを育てた。

高橋安幸●文 text by Takahashi Yasuyuki