'06年の高2の一学期には、睡眠薬の過剰摂取など自殺未遂を繰り返すようになる。母の気持ちはわかっていたはずだ。ただ、死にたいと思ったとき、フラッシュバックが起きて常とは違う意識になってしまう——8月18日、16歳の夏。美桜子さんは真赤なサインペンでノートに遺書を残した。《まま大好きだよ……でもね、もうつかれたの。みおこの最後のわがままきいてね……みんな愛してるよ。でも、くるしいよ。》。そして、彼女はマンションの8階から身を投げた——母親が学校の教員でもあったにもかかわらず、美桜子さんの葬儀・告別式に弔問する大学職員や市邨中学の教師や同級生の姿はなく、香典も供花もいっさい届かなかった。

「『死ね』は?(クラスメート)全員だよね?」「そうですね」「美桜子とすれ違ったり、顔を見ると、死ね、死ねって言ってたよね」「そうですね」「それも夏休みから、転校までずっと、だよね」「はい」——典子さんは、美桜子さんの同級生から話を聞き始めた。すでに'08年2月。3月になれば同級生も市邨高校を卒業する。生徒の中には、墓参りを申し出たり、自分もいじめられていたと告白する者もいたという。同時に典子さんは、市邨にアプローチした。しかし「親が間に入って『あんたのやっていることは脅しだ』と一蹴されました。教師も同様。どうも市邨学園は、理事長には何も言えない組織のようです。いじめは認めないし、すべて隠蔽する。それで卒業まで引き伸ばして、調査をできない状態にする——」

愛知県の私学振興室に相談して、ようやく担任との面談がかなったのは5月20日のこと。面談は5時間に及んだ。学校側は一貫して「いじめそのものがなかった」という態度だった。私立学校の場合、「私学の自主性」が尊重され、文部科学省にも訴えを聞いてくれる窓口がない。'09年、典子さんは訴訟に踏み切った。市邨学園側は真っ向から対立。一審終盤では、被告の立場では真実は語れないと判断し、同級生たちとは和解しているが「和解後の法廷では、生徒全員の証言が敵対的なものばかりだったのが、いちばんつらかった」という。そして'11年5月20日。名古屋地裁は、市邨でのいじめと教師らが何ら対処せず放置したことによって、美桜子さんが解離性同一性障害を罹患、自殺に至ったことは明らかだと断じた。市邨学園側は一審判決の直後に控訴。

裁判の間ずっと典子さんを支えていたのは、もちろん美桜子さんの存在だ。彼女が好きだったバンドのライブにも積極的に出かけている。「まあ、いい年をした私がライブに行けば目立ちますよね(笑)。全国ツアー全公演を制覇することを『全通』って言うんですけど、51歳のときに達成しました。親であり続けたいんです。やっぱり、親としてわが子を救えなかった後悔があります。残された人生が美桜子のためにあるのならば、美桜子がやれなかったことをやりたいし、いじめによって後々まで精神的に苦しめられることもある事実を伝え続けたい」

まもなく控訴審の判決が下される。司法はこの母の声をどう受け止めるのか、日本中の親たちが見守る。