いまや外国人には″5割引きの国″に…「日本は巨大なドン・キホーテになった」円安ニッポンへの警鐘、「責任ある積極財政」の責任は誰が取るのか
1ドル163円を突破し、一時7万円を超した日経平均株価も6万1000円台に下がった。そして高市早苗政権の支持率も下落傾向にあり、毎日新聞が7月に実施し世論調査ではマイナス10ポイントの41%まで落ち込んだ。高市総理は支持率が下落したことについて「原因がわからない」などと述べるが、ビジョンのない経済政策に国民がしびれを切らしたという指摘は多い――。
「責任ある積極財政」の責任の所在
「責任ある積極財政」
高市総理、片山財務大臣が繰り返し口にする言葉である。しかし、私はこの言葉を聞くたびに、一つの疑問が頭から離れない。その「責任」は、一体誰が取るのだろうか。
政治家の世界で責任とは、多くの場合「辞任」で終わる。支持率が下がれば辞める。選挙に負ければ辞める。不祥事があれば辞める。
しかし、それは本当に責任を取ったことになるのだろうか。一度膨らんだ国債残高は消えない。傷ついた円の信認も、一度失われた国際競争力も、辞表一枚で元には戻らない。政治家は辞任できる。しかし、日本国民は辞任できないのである。
その象徴的な場面を私は今でも鮮明に覚えている。高市総理が就任後初めて迎えた衆院選の選挙速報番組で、爆笑問題の太田光氏が物価高対策に触れ、「もし出来なかった場合は、どう責任を取るのですか」と問い掛けた。
これは単なる揚げ足取りではない。日本の政治は、結果が出なかった時の責任の所在が曖昧になりがちではないかという、多くの国民が抱く疑問を代弁した質問だった。
責任の所在を「何か意地悪やな~」でごまかす高市
すると高市総理は、「何か意地悪やな~、最初からできへんと決めつけんといてください」と急に焦った様子で関西弁で応じ、その後も「一生懸命やるだけです」という趣旨の説明に終始した。
もちろん、一生懸命取り組む姿勢を否定するつもりはない。しかし、それは責任とは別の話である。努力は責任ではない。結果に対する責任を問われている場面で、「頑張ります」と答えるだけでは自己満足の域を出ない。
だからこそ、「睡眠時間はゼロから3時間です」と激務を語る姿にも私は違和感を覚える。それだけ働いているという自己アピールなのかもしれないが、国民が求めているのは睡眠時間の短さではない。結果であり、その結果に対してどのように責任を負う覚悟があるかなのだ。
6年間で円の国際的価値は4割近く失われた
高市政権は台湾有事という、これまでタブー視されてきた問題にも積極的に踏み込んだ。国家観として評価する向きもあるだろう。
しかし、その一方で、田中角栄元総理が日中国交正常化を果たして以来、半世紀以上かけて築いてきた中国との経済関係を転換するのであれば、その経済的コストまで含めて国民へ説明する責任があるはずだ。
さらに、今回の骨太の方針ではAI、半導体、防衛、GXなどへの成長投資が大きく打ち出された。その方向性そのものを否定するつもりはない。
しかし、「責任ある積極財政」と言う以上、その政策が期待した成果を生まなかった時、誰がどのように責任を負うのかまで語られなければならない。
さらに深刻なのは円である。この6年間で円の国際的価値は4割近く失われた。分かりやすく言えば、6年前の1万円は、海外では今や6000円程度の購買力しか持たなくなったということである。
海外旅行へ行けば、その現実を嫌というほど思い知らされる。100ドルを両替するだけでも、手数料まで含めれば1万5000円近くになる。
とにかく安い日本の「ドン・キホーテ二乗現象」
反対に外国人旅行者から見れば、日本は円安だけで4割引き、さらに免税まで加われば体感的には5割引きの国である。今や彼らはドン・キホーテへ安い買い物をしに来ているのではない。日本そのものが巨大なドン・キホーテになってしまったのである。
そして、その巨大なドン・キホーテの中で、さらにドン・キホーテへ立ち寄り、免税で買い物を楽しむ。私はこれを「ドン・キホーテ二乗現象」と呼びたい。
笑い話のように聞こえるかもしれない。しかし、笑っている場合ではない。4割引き、いや免税まで加えれば5割引き。その値札が付けられているのは家電でも化粧品でもブランド品でもない。日本という国そのものなのである。
それにもかかわらず、政府は新NISAを積極的に推進し、企業へ補助金を投入し、株価は史上最高、税収は過去最高だと成果を強調する。しかし、それらは円安によって押し上げられた「見かけの繁栄」に過ぎない。
私は以前から、日本株はいまや「砂上の楼閣」の上に築かれていると申し上げてきた。
「税収は過去最高」は見かけの繁栄でしかない
さらに私が違和感を覚えるのは、「税収は過去最高」という政府の説明である。
確かに税収は増えている。しかし、それは国民が豊かになった結果ではない。物価が上がれば消費税収は自然に増える。円安によって企業の売上が名目上膨らめば法人税も増える。賃金が上昇すれば所得税も増える。
しかし、その一方で実質賃金は伸び悩み、多くの家庭は以前よりも生活の苦しさを感じている。政府は過去最高の税収を成果として語るが、その裏側では国民の実質的な購買力は低下し続けているのである。
税収過去最高とは、日本経済が強くなった証ではない。円安と物価高によって名目の数字が膨らんだ結果に過ぎない。株価だけではない。税収まで「見かけの繁栄」で語られるようになったとすれば、それは極めて危うい発想と言わざるを得ない。
トランプ政権との間で約束した莫大な防衛装備品の購入も、その多くはドル建て決済である。円安になればなるほど、その負担は最終的に国民へ跳ね返る。台湾有事への備えも、中国との経済関係の見直しも、それ自体を否定するものではない。
しかし、その政策が生み出すコストまで国民に説明して初めて、「責任ある政治」と呼べるのである。
覚悟なくして「責任ある」という言葉だけが一人歩き
「責任ある積極財政」と言うのであれば、その責任は辞任では済まない。本当の責任とは、日本円の価値を守り、日本という国家の信用を守り、その財産を次の世代へ引き継ぐことである。
その覚悟なくして「責任ある」という言葉だけが一人歩きするのであれば、それは責任ではなく、単なる政治的キャッチコピーに過ぎない。
政策には必ず恩恵とコストがある。そのコストまで含めて国民に説明し、結果を検証し、失敗まで含めて責任を負うことこそ、本来の政治である。
今、日本に必要なのは株価を上げることではない。円の国際的価値を取り戻すことである。国民は株価で生活しているのではない。円で生活しているのである。
株価は円建てで上がる。しかし、世界は通貨の価値を通じて、その国の力や購買力を評価する。株価が史上最高値を更新し、税収が過去最高を記録したとしても、円の価値が下がり続け、国民の暮らしが豊かにならないのであれば、それは繁栄ではない。ただ数字だけが踊っている「見かけの繁栄」である。
日本の政治に最も欠けている「責任を負う」文化
だから私は、株価だけを見て日本の未来を語るつもりはない。税収の数字にも惑わされない。円を見る。国力を見る。そして、その先にある日本の未来を見続けたい。政策は発表した瞬間に終わるものではない。結果を検証し、その責任を負うところまでが政治である。
日本の政治に最も欠けているのは、政策をつくる能力ではない。政策を最後までやり切り、その結果に責任を負う文化である。そして、その責任とは辞任ではない。円の価値を守り、国民の財産を守り、日本という国家の信用を守ることである。それこそが「責任ある積極財政」の本当の意味ではないだろうか。
「責任ある積極財政」とは、未来へ借金を残すことではない。未来へ信用を残すことである。
取材・文/木戸次郎

