苦労した下積み時代も…

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 夕刊紙・日刊ゲンダイで数多くのインタビュー記事を執筆・担当し、現在も同紙で記事を手がけているコラムニストの峯田淳さんが第一線で活躍する有名人たちの“心の支え”になっている言葉、運命を変えた人との出会いを振り返る「人生を変えた『あの人』のひと言」。第75回は歌手の氷川きよしさん。正統派演歌歌手から、現在はロック調の壮大な曲を歌うアーティストに。その人生を支えた知られざる秘話に迫ります。

【写真で見る】常に進化と変化を遂げる、氷川きよしの成長ぶり

お母さんの作る「ミートスパゲッティ」

 歌手の氷川きよし(48)は、長良プロダクション所属時代に長良グループの夜桜演歌まつりのステージや、東京国際フォーラムで行われた恒例のコンサート「きよしこの夜」でのパフォーマンスを2019年と2022年の2回、堪能することができた。

苦労した下積み時代も…

「きよしこの夜」でとにかく驚いたのは、アニメ「ドラゴンボール超」のオープニングテーマになったロック調の「限界突破×サバイバー」のド迫力ぶり。

♪やだねったら やだね〜の「箱根八里の半次郎」や、♪ズン、ズン、ズン ズンドコ〜の「きよしのズンドコ節」のような、かつての歌謡調や演歌とはかけ離れた楽曲で、ますます妖艶になる姿に、氷川の中でどんな変化が起きているのかと感慨深かった。

 しかし、結論から言えば、それは自然な流れで現在地にたどり着いたのではないかと思うようになった。

 インタビューしたのは17年。「おふくろメシ」のテーマで話を聞いた。氷川にとって思い出のご飯は「ミートスパゲッティ」……スパゲッティ・ミートソースではない。

 77年、福岡市生まれ。共働きで父親はタクシーの運転手、母親はパート勤めなどをしていた。一人っ子の氷川は、母親への思い入れが強かったようだ。この時に聞いた話と、その14年前に出版された『わたしはあきらめない』(NHK『わたしはあきらめない』制作班、KTC中央出版)で明かしている親への思いは、ニュアンスが同じだと思う。

 先にミートスパゲッティについて。当時の住まいは2Kのアパートだった。

「台所は玄関の下駄箱の裏にありました。境目に模様付きの大きなガラスがあって、ボクは下駄箱の上に乗って、ガラス越しにフライパンを振っている母親の後ろ姿を見ていた。ミートソースの顆粒状のルーを入れてジュッと音がする瞬間がたまらなく好きで。ただ、作ってくれるのは月に1回くらい。その日が来るのが楽しみでした」

 そしてミートスパゲッティについては「パスタのプリッとした感じ、合いびきと玉ねぎを炒めた食感がたまらなくて」と語った。母親の背中を見ながら、できあがりを待ちわびる氷川の姿が目に浮かぶし、母親との触れ合いがなんとも微笑ましい。

 母親について語った言葉がある

〈歌詞に「お母さん」とか出てくるだけで、ちょっとジーンと……〉

〈小学3年の時、「一生母を守る」とまで宣言する子供だった〉(どちらも『わたしはあきらめない』から)

銀行の残高が100円に…

 歌手になることについて父親は賛成したが、母親は反対だった。一人っ子の息子を、右も左も皆目わからない東京に送り出すことへの不安が理由だった。しかし、氷川はNHKのコンクール番組に出演した際、作曲家・水森英夫にスカウトされ、未知なる芸能界へ一歩を踏み出すと決めていた。

 上京後は東京都庁の近くの商店街にある、家賃6万5000円のアパートに住んだ。そこは水森の自宅のすぐそば。

 実は筆者は、不思議な経験をしている。当時、住んでいたのは氷川のアパートがある同じ町内だった。あるテレビ番組で、氷川が通っていたコインランドリーが紹介されたのだが、見たことがある光景だったので何日か後に前を通り、たまたま幹線道路の向こう側にある別の商店街まで足を伸ばした。すると偶然にも「水森英夫」の表札がある豪邸の前に出たのだ。その時、氷川は同じ道を歩いて水森宅で行われるレッスンに通っていたのかと納得したのだった。

 この頃の氷川はアルバイトの毎日で、銀行の残高が100円のこともあったとか。慣れない都会の生活にホームシック気味で、母親に毎日電話していた。一月の電話代が4万円だったこともある。

 そんな生活も3年目に入っていた。水森はデモテープを送って氷川を売り込んでいたが、ことごとく断られた。当時は演歌離れが進んで、演歌歌手は着物を着て歌う女性歌手ならまだしも、男性は門前払い同然。

 そこで「これが最後」と決めて、ある作戦を考えた。事務所に行き、水森がつま弾くギターに合わせ、氷川が歌う。申し出を受けてくれたのが長良プロで、氷川は音楽業界の実力者だった故・長良じゅん会長の前で、大声で歌った。

 筆者も長良会長には2度ほどお目にかかったが、挨拶した瞬間から知らぬ間に背筋がピンと伸びていた。氷川の緊張感もいかほどだっただろうか。そして長良会長の一言で氷川の歌手人生が決まった。

「よし、うちがやる」

 会長は「大当たりか大外れの一か八か」の勝負で氷川を引き受け、この賭けは見事に当たった。デビュー曲「箱根八里の半女郎」は160万枚の大ヒット。4枚目のシングル「きよしのズンドコ節」は代表曲の一つになった。氷川は「演歌界の貴公子」としてスター街道を突っ走った。

母の作るがめ煮

『わたしはあきらめない』発売の頃、両親は東京に来たことがなかった。しかし、「おふくろメシ」を聞いた頃には紅白歌合戦に出場して正月を迎えると、「母ががめ煮を作ってタッパーに入れて持って来てくれるのですが、それをお屠蘇をごくごく飲みながら食べる」のが恒例になった。

 スターになり、親子水入らずで正月を送る夢も実現した。

 そんな氷川の変貌に関しては「限界突破×サバイバー」を聴いてピンとくるものがあった。ポップス調やロック調について前掲書でこう語っていた。

〈3年間演歌でやってダメだったら、今度はポップスかロックで、また一からやり直そう。ポップス歌手を目指そうかなと思っていました〉

 24年には長良プロを退社し、新会社を立ち上げて活動している。家族、母親への思いは変わらず。周辺環境は変わりつつも、氷川は歌うジャンルを広げながらもずっと思いのままに生きているのではないか。

峯田淳/コラムニスト

デイリー新潮編集部