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65歳から受給開始となる「老齢年金」。受給時期を後ろにずらすことで、受け取れる金額を増やすことができる「繰下げ受給」を検討している人も多いのではないでしょうか? 年金が増額することで、ゆとりのある老後が送れるようになります。しかしながら、想定外の「デメリット」も存在するようで……。今回は、年金の繰下げ受給に関する意外な「落とし穴」について、FPの辻本剛士氏が解説します。

将来の受給額を増額できる「繰下げ受給」

毎年、誕生月に送られてくる「ねんきん定期便」には、年金を遅らせることで将来の年金額が増額する旨の案内が記載されています。これがいわゆる年金の「繰下げ受給」のことです。

[図表1]ねんきん定期便出所:日本年金機構 50歳未満の方

年金の「繰下げ受給」とは、65歳から受給できる年金の開始を遅らせることです。1ヵ月遅らせることで0.7%年金額を増額でき、最大で84%増額します。

[図表2]繰下げ増額早見表出所:日本年金機構 年金の繰下げ受給

たとえば、65歳からの年金受給額が毎月15万円を予定している人が、10年間繰下げをした場合、年金受給額は次のように増額します。

15万円×1.84=27万6,000円

このように、年金の繰下げ受給を選択することで、将来の年金額を増額でき、その後は経済的な部分での安心を得られやすくなるメリットがあります。

しかし、一方で繰下げ受給を選択することで、健康寿命までの期間が短くなることや、所得税などの税金が増加してしまうなどのデメリットもあります。そのため、将来の年金額が増額する部分だけに注目して、繰下げ受給を選択した結果、その選択を後悔するケースも少なくありません。

将来の収入安定化を目指して「繰下げ受給」を選択した山中さん

山中彬さん(仮名・64歳)は独身で一人暮らしをしており、長年、中小企業の工場で勤務しています。

毎晩の晩酌は山中さんの小さな楽しみの1つで、仕事終わりに缶ビールを買って帰り、寝る前にリビングのソファで、テレビを観ながらビールを飲むのが日課です。これといった趣味もなく、年に1〜2回、20代の頃からの親友2人と会い、酒を酌み交わしながら、昔話に花を咲かせるのを楽しみにしていました。

もうすぐ65歳を迎える山中さんは、ねんきん定期便に記載されていた「繰下げ受給」の存在が気になり、年金事務所に相談へ行きます。

年金事務所で「繰下げ受給」の説明を聞き、担当者からは年金の繰下げ受給を勧められました。山中さんの年金見込み額は月16万7,000円で、70歳まで繰り下げ受給をすることで約23万7,000円に、75歳までの場合は約30万7,000円に増額するとのことです。

これといった老後の計画がなかった山中さんですが、健康にも特に問題がなく、足腰もまだ丈夫です。そこで山中さんは仕事を続け、72歳まで年金を繰り下げることにしました。これにより、72歳以降は、月に約26万5,000円の年金が支給されることになり、65歳時点の年金受給額より10万円近く収入が増える見込みです。

そして、72歳になり、職場を引退。実は、山中さんには密かな野望がありました。「これまで趣味も持たず、仕事一筋でやってきた。仕事も引退したことだし、残りの人生はこれまでやってこなかったことにチャレンジをしよう。年金も増えたし、貯金もある。余生を思う存分楽しむぞ!」と意気込んでいました。

余生を楽しむはずの山中さんに起こった「悲劇」

それからの山中さんは時間に縛られることなく、朝は起床後、のんびりと朝食を摂り、昼過ぎには缶ビールを開ける、まさに至福の時間を過ごしていました。また、かねてから関心を持っていた低山登山やカメラという新たな趣味にも目覚め、同じくリタイヤ生活を送る親友と3人で、カメラ片手に近隣の山にハイキングに出かけたり、少し足を伸ばして、他県に登山遠征をしてみたりと、まさに学生時代に戻ったかのような理想の生活を送っていました。経済的にも、繰下げ受給によって年金額は10万円以上増額しており、特に大きな不安はありません。

しかし、悠々自適な日々を送っていた山中さんに、突如悲劇が襲います。

ある朝、山中さんはトイレに行きたくなり、ベッドから起きようとしましたが、右腕の感覚がまったくありませんでした。手がしびれているのかと思い、様子を見てみたものの一向に感覚は戻らず、さすがにおかしいと思い、山中さんは救急車を呼ぶことにしました。

病院での検査の結果、山中さんは脳梗塞であることが判明します。幸い一命を取り留めたものの、医師から告げられたのは、右肩から下に後遺症が残り、その後、数ヵ月にわたるリハビリが必要ということでした。

リハビリに励む山中さんのもとに、さらに悲しい知らせが届きます。長年親しく遊んでいた友人の1人が急性心不全で亡くなり、もう1人は糖尿病が悪化し、要介護状態に陥ってしまったとのことでした。

山中さん自身はリハビリの甲斐もあり、手先に多少の麻痺は残ったものの、半年後には日常生活を送れるまで回復します。しかし、趣味の登山を再開には体への負担が大きく、医者に止められてしまいました。しかも、山中さんの生き甲斐だった親友たちと楽しい時間を過ごすことも、もう叶いません。

「せっかくリタイヤ生活を楽しもうと思っていたのに、こんなにあっけなく体を壊すとは……。お金があっても、動けないと意味がない。とんだ勘違いをしていました。こんなことになるなら、繰り下げなんてしないで、年金が少なくても、元気なうちにさっさと引退して、思い切り楽しむべきだった。もっと元気な間に、あいつらとたくさん会っておきたかった」

山中さんは、繰り下げ受給をした自分の選択を深く悔やむのでした。

平均寿命と健康寿命には、10年近い乖離がある

内閣府が公表した資料によると、2019年の平均寿命は男性が81.41歳、女性が87.45歳です。それに対し、健康寿命については男性が72.68歳、女性は75.38歳という結果が出ています。

[図表3]高齢化の状況 引用:内閣府 第1章 高齢化の状況(第2節 2)https://www8.cao.go.jp/kourei/whitepaper/w-2023/html/zenbun/s1_2_2.html#column2

健康寿命と平均寿命の差は男性で8.73年、女性は12.07年となり、この期間は日常生活に何かしらの制限がかかっている状態です。

加えて、この期間は介護などの医療費負担も増加しやすく、経済的な部分も心配になりやすいでしょう。

山中さんの場合は、繰下げ受給を選択したことで年金受給額が増額し、経済的な心配は限定的でしたが、その代わりに親友との大事な時間を失うことになりました。

”健康寿命”を意識した老後計画が大切

繰下げ受給は将来の年金受給額が増額するメリットがありますが、一方で、受給開始後から健康寿命までの期間が短くなってしまうデメリットもあります。また、将来の年金額が増加すると同時に、税金や社会保険料も増加してしまう点も見落とされがちです。

自身の寿命や健康寿命は誰にもわかりません。72歳で健康寿命を迎える人がいる一方、健康寿命の平均を大幅に超え、90歳でも元気に過ごしている人もいます。そのため、繰下げ受給を検討する際は、個々の健康状態や生活スタイルを慎重に考慮することが重要です。

そのうえで、バランスの取れた食事や定期的な健康診断、適度な運動などで健康に気を遣い、少しでも健康寿命を延ばせられるよう、努めることが大切です。

辻本剛士
ファイナンシャルプランナー