これをすれば老後にかけがえのない友人を得られる…中高年の人間関係に絶対必要な"大人のマナー"
※本稿は、高田明和『孤独にならない老い方』(成美堂出版)の一部を再編集したものです。
■知り合い・仲間と違う「友人」の示す本当の意味
モラリスト シャンフォール
米国に住んでいてつくづく思ったことの一つに、「友人(friend)」という言葉の解釈があります。
friendは、特別に親しい相手にだけ使う言葉なのです。
米国では、一緒に働いている人や、つき合っている仲間の経歴がわかりません。
本人に聞くのも失礼ですし、「彼はオランダから来た人だよ」「エール大学を出ているらしい」などということ以外、まるで知らないのが普通です。
そのため、知人を紹介したりする時は「知り合い(acquaintance)」とか「仲間(colleague)」という言葉を使い、friendは使いません。
そんな背景があるので、friendという言葉には大変な重みがあるようです。
■日本での「友人」=つき合っている仲間
たとえば、映画『ディア・ハンター』がそうです。ロシアン・ルーレットという命がけの博打(ばくち)で得た金をベトナム戦争の負傷帰還兵に送り続ける友人を、ロバート・デ・ニーロがベトナムまで救いに行きます。
友人は薬物中毒になっており、デ・ニーロは自分がロシアンルーレットに参加してまで、「こんなことはやめて米国に帰ろう」と訴えます。
その時、デ・ニーロは「You are my friend.」と言って説得するのです。
『普通の人々』という映画では、兄を遭難死させたのは自分ではないかと苦しむ男性に、精神科医が手を差し伸べます。
「なぜそんなに親身になってくれるんだ」といぶかる男性に、精神科医は「お前は友達だからだ」と言いました。
日本では「友達の友達は友達だ」という言葉もあったりして、「友人」には、つき合っている仲間という以上の意味はありません。
もちろん、米国で言うfriendに相当する言葉がないだけで、その人のために尽くす、裏切らない、という友情は広く存在します。
■自分と無関係な面は見ないのが年配者の友情
たとえば私は今、いくつかの大学の人たちと共同研究をしています。その中にも、世代や性別を超えたfriendがいるのです。
恩師の林髞先生は、友達について、こんな的確な指摘をしました。
「『あの人はすばらしい』などと思っている時には、友達はできない。『あの人は、こういう時にはこういうことをする人だ』とわかるようになると、本当の友達ができる」
人間にはいろいろな面があります。外からはうかがい知れない欠点もあります。
思いがけない面に気づくたびに「なあんだ、あんな人か。すばらしい人だと思っていたが、そうでもないんだ」と考え、それにとらわれていたら、誰とも親しくなれません。
林先生は、そう教えられたのです。
友達を広げられるかどうかは、自分の人格が問われる問題でもあるのです。
伊藤整は、作家の横光利一(りいち)の次のような逸話(いつわ)を書いています。
「横光利一は非常にまじめな人だった。その死の床に、遊び人として有名な作家が来て、『これからはあなたのように立派な生き方をしたい』と言った。すると横光は、『自分こそ、君がうらやましくてたまらなかった。しかし、どうしてもできなかった』と言った」
私は、人間はいろいろな面を持っているのだから、自分と関係のある面だけを見て、それ以外は見ないようにするべきだと考えています。
「友人とは、あなたについてすべてのことを知っていて、それにもかかわらずあなたを好んでいる人のことである」と、小説家のエルバート・ハバードは言っています。
しかし、私は、知りすぎると友人とつき合えなくなることがあると考えているのです。
■喜べることが無上の幸福
friendであるためには、強い尊敬の意識が必須です。尊敬があると、相手に尽くそうと思います。裏切るなど思いもよりません。成功や成果を共有しようとします。
ともに喜べることが無上の幸福だと感ずるようになるのです。
一般に、私たちは常に嫉妬心を持つので、一緒に仕事をしている人が成功しても、それをねたんだりすることがあります。
しかし、尊敬の意識は、そういう人間心理を解消してくれます。仕事をうまく進める要因でもあるのです。
いい面ばかりを求めると友人は少なくなります。
でも、嫌な面を受け入れてまで友人でありたくはない。
最初から見ないのが賢明です。
■密接な交流はない、真の友情のかたち
小説家 高見順
東京谷中(やなか)にある禅寺の全生庵(ぜんしょうあん)に通っていたことがあります。中川宋淵(そうえん)老師が、龍沢寺から講話に来ていました。
宋淵老師は、旧制一高時代に高見順さんと同級生でした。高見順さんは58歳で亡くなり、老師は命日にあたる夜の講話で、こう言われました。
「部屋に行くと、もう高見の意識はなかった。私は高見が息を吸う時に吸い、息を吐く時に吐いて、ある時ぐっと息を止めると、高見の両眼から涙がこぼれ、亡くなった」
奥様も、夫の最後のことをこのように書かれています。
「中川宋淵師は決別の辞を枕頭(ちんとう)に置き、朗々(ろうろう)たる声で二時間くらい読経をしました。そして最後に『喝(かつ)』と叫ぶと、高見は私を見て息を引き取ったのです。閉じたまぶたから、やせ衰えた頬(ほお)にはらはらと涙が流れ落ちました」
私はこれらの話を知り、一代の高僧といわれた老師のお経を聞いて高見順さんの心が喜び、涙がこぼれたのだと直感しました。
二人の間には密接な交流はなかったようですが、このような交わりこそ、真の友情だと思います。
■親子、兄弟、姉弟の間にも友情という感情は生まれる
志賀直哉は若い頃、キリスト教に関心があり、内村鑑三(かんぞう)の集会に参加しました。
しかし、どうしてもキリストの教えを信ずることができず、「もう来ません」と、交流を断ったということです。
やがて、内村の病が重いと聞いた志賀は見舞いに行きますが、面会禁止のために会えませんでした。
しかし、家族が「志賀さんが来ました」と告げると、内村は「志賀が来たか」と言ったということです。なにか万感の思いを感じます。
私は友情は深い人間関係の一つであり、親子、兄弟、師弟の間にも同じような感情が生まれると思っています。
たとえば、量子力学を確立した物理学者ニールス・ボーアと弟子たちの間柄がそうです。量子力学はボーアの愛弟子(まなでし)である物理学者ハイゼンベルクの着想から始まります。
この師弟は量子力学の共同研究者であり、一心同体のように見られていました。
ある時、ボーアとハイゼンベルクは近くの島まで徒歩旅行し、海岸で一緒に海に石を投げて遊んだということです。光景が目に見えるようです。
そして、この島でハイゼンベルクは量子力学の着想を得たのでした。
その後、ボーアは米国でマンハッタン計画に関与し、ハイゼンベルクはドイツ科学界の長となりました。そして、第二次大戦中に二人は会うことになったのです。
その時、世界的に有名なこの師弟は何を話し、何を話さなかったか、今でも議論が続いています。
■「心の中の友」との会話を深めていく
ボーアの弟子の物理学者パウリも量子力学の進展に大きく寄与し、ボーア、ハイゼンベルクに次いでノーベル物理学賞を受けています。
パウリは亡くなる時、「会いたい人がいるか」と聞かれ、「ボーア」と答えました。ボーアはすでに亡くなっていましたが、強いきずなで結ばれた師弟には、そんなことは関係なかったのでしょう。
これらの逸話を見ると、友情はお互いが一緒にいなくても続くものであり、いるというだけで心が癒やされる存在だということがよくわかります。
私たちは誰でも、このような関係を望んでいます。仮に物理的距離が遠く離れても、心はいつもつながっていると信じられるのが友情なのです。
友情は愛の一部でしょう。人は愛がなくては生きられません。同じように、人は友情があってこそ、豊かに生きられるのです。
晩年の楽しみの一つにノスタルジアがあります。しかし、人が関与しないノスタルジアはそうありません。懐かしいと思う気持ちの根底には、友情のような関係があるのです。
たとえfriendでなくても、心の中には誰か大切な人がいるはずです。その人との関係が思い出される時、私たちの人生は豊かになるのです。それは至福の時だといえるでしょう。
遠くにいても、たとえ亡くなっても、忘れない。
そんな相手を親友と呼ぶのかもしれません。
■人は男女の差を越えてfriendを求めている
自己啓発作家 デール・カーネギー
friendという意識は同性だけでなく、異性との間にも存在すると思います。人は男女の差を越えてfriendを求めているし、friendになりたいと努力していると思っています。
私も、精神的に非常に親しくしている相手には、男性もいれば女性もいます。
どちらの場合も大切なことは、たとえば一緒に仕事をしているのなら、仕事と無関係な面には介入しないことです。
その人の経歴、家族関係、経済状況、時にはスキャンダルめいた話などが、なんとなく聞こえてくる場合もあります。
しかし、詳しく知ったところで、人間関係にはなんの役にも立たないのです。
もちろん、たとえば「息子さんが発達障害らしい」などと聞けば、心配にはなります。しかし、「最近、どうしていますか」などと聞くことはしません。
■妻が親しかった同級生の相談相手
私は今、妻が中学高校時代に非常に親しかった同級生の相談相手になっています。
彼女は一人っ子で、子供はいません。二年ほど前にご主人が亡くなり、一人暮らしになりました。
絵を描くのが趣味でしたが、数年前から加齢黄斑変性(おうはんへんせい)になって右目が見えなくなりました。左目の病状も進行して、趣味を楽しむのが難しくなったのです。
介護施設に関しては、かつてご主人と二人で入り、「地獄のようだ」と感じて家に戻って以来、二度と入る気はないようです。
彼女は私の恋人でもなんでもないのですが、妻が親しかったということで相談相手になっています。
彼女は私が医師である点でも頼りにし、尊敬もしているようです。しかし、専門が違うのであまり役に立てず、せいぜい「主治医の言う通りにしたほうがいいね」という程度の助言をするだけです。
それでも、夜の十時頃に私に電話をかけ、その日の出来事を二十分ほど話すのが、彼女の習慣になっています。
私は「誰にも将来は予測がつかない」とか、「自分を守るのは自分しかいない」「自分で結論を出し、そのようにしなさい」などと激励します。
新型コロナ禍もあって、最近は直接会っていないのですが、私ができることはただ励ますことだと思い、電話を受け続けています。
■「欲と二人連れ」の関係から徐々に離れる
若い女性などが男性とこのような関係になると、周囲から男女関係を疑われる場合もあると思います。実際、そういう関係に持ち込もうとする男性もいるでしょう。
私は、相手の頼る気持ちや尊敬を欲望を満たすために悪用するのは大罪に値し、徳を損なうことおびただしいと思っています。
とくに尊敬は愛に近いので、悪用すればたちまち男女関係になりかねません。しかし、そうなっても誰も得をしないどころか、お互いの家庭が壊れる可能性もあるのです。
私たちの尊敬、愛情、性的な欲望は、微妙なバランスの中にあります。このバランスを破って欲望に走ると、ついには破滅に至ります。
欲にとらわれれば失敗し、欲を抑えれば成功するという教えは、なんにでも通用するのです。
その成功と失敗は紙一重の差ですから、私たちはできるだけ理想主義的に生きて、欲望の世界に尊敬や愛情を持ち込まないようにすることが必要です。
もちろん、理想だけでは生きられません。現実の社会が許さないのです。しかし、理想がなければ生きられないことも事実です。
デール・カーネギーが「関心を引こうとするよりも、純粋な関心を寄せること」の大切さを指摘した冒頭の言葉に、私も同感です。
現役時代は、いわゆる「欲と二人連れ」の人間関係が多くなりがちだったと思います。
「仕事のつき合い」とか「利害関係」といった意識にわずらわされなくなったこれからが、友達づき合いをゆっくり楽しめる貴重な時間になるのです。
恋人関係は若い頃の美のきわみでしょう。
しかし、男女の友情は、より洗練されているのです。
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高田 明和(たかだ・あきかず)
浜松医科大学名誉教授 医学博士
1935年、静岡県生まれ。慶應義塾大学医学部卒業、同大学院修了。米国ロズウェルパーク記念研究所、ニューヨーク州立大学助教授、浜松医科大学教授を経て、同大学名誉教授。専門は生理学、血液学、脳科学。また、禅の分野にも造詣が深い。主な著書に『HSPと家族関係 「一人にして!」と叫ぶ心、「一人にしないで!」と叫ぶ心』(廣済堂出版)、『魂をゆさぶる禅の名言』(双葉社)、『自己肯定感をとりもどす!』『敏感すぎて苦しい・HSPがたちまち解決』(ともに三笠書房≪知的生きかた文庫≫)など多数ある。
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(浜松医科大学名誉教授 医学博士 高田 明和)