革命直前の帝政ロシアを舞台に、「神人」とも「怪物」とも称された超能力者がいた。名前はグレゴリー・エフィモヴィッチ・ラスプーチン。生年は不詳で1860年代末とも1872年ともいわれている。

 

卓越した超能力

↑帝政ロシアを牛耳った怪僧ラスプーチン

 

家族に不幸が重なり、あまり幸福とはいえない人生だったが、1891年に聖母マリアを空中に幻視したことをきっかけに、総行程1万5000キロの徒歩巡礼の旅に出た。そしてその間、もともとの超能力の素質を開花させ、ヒーリングと透視、予知能力を身につけて帰ってきたのである。

 

1903年、ロシア帝国の首都であるペテルグルク(現サンクト・ペテルブルク)に現れたラスプーチンは、「1年以内に皇帝に後継者が生まれる」と予言。実際に翌年8月に、皇位継承者であるアレクセイが誕生した。

 

また、重病や難病で苦しむ人を次々と治療し、「奇跡の治癒者」と呼ばれるようになる。こうして名声を高めたラスプーチンは、1905年11月1日、ついに皇帝ニコライ2世に謁見する。皇帝はいたく感激し、日記に「神の如き人物に会った」と記したのだ。

 

それから2年後、誕生を予言した皇太子アレクセイが生命の危機に陥る。高熱にうなされ、出血が止まらない。医師も匙(さじ)を投げている、というのだ。じつはアレクセイは生まれつきの血友病だったのである。

 

「誕生を予言したあなたに、助けてほしい」

 

皇帝の使者の要請に、ラスプーチンはすぐにその場で長い祈りを捧げた。そしてこう宣言したのだ。

 

「心配ない。すぐに快方に向かわれる」

 

するとたちまち皇太子の熱は下がりはじめ、奇跡の回復を果たした。ラスプーチンは、皇太子のもとを訪れることなく、遠隔ヒーリングによって見事に病を癒したのだ。

 

ラスプーチン暗殺

この出来事をきっかけに、ラスプーチンへのニコライ2世の信頼は揺るぎないものになった。政界に奥深く食い込み、さらには皇后からも信頼を得る。政治や人事への口だしもあたりまえのことになった。

 

それでも驚異的な予言と治療を連発するラスプーチンを、皇帝は黙認するだけだ。もちろん、重鎮たちは快く思わない。かくして、ラスプーチン暗殺計画が実行されることになった。

 

1916年12月29日、大富豪ユスポフ侯爵の宮殿で行われたパーティに参加したラスプーチンは、致死量の10倍以上の青酸性毒物が入れられたワインとケーキを口にする。だが、いっこうに苦しみもしないラスプーチンに、ユスポスらは銃を発砲。それでもラスプーチンは絶命しない。計3発の銃弾で弱らせると、さらに鉄の棒で頭部をめったうちにしたうえで、凍結したネヴァ川の氷を割って、水中に沈めたのだ。

 

遺体は1917年1月1日に、凍結状態で発見された。当時の死体検案書には「溺死」と記されている。つまり、3発の銃弾を受け、頭部を鉄の棒でめった打ちにされても、ラスプーチンは絶命していなかったのだ。

 

この自らの死についても、ラスプーチンは予知していたふしがある。というのも遺言書には、こう書かれていたからだ。

 

「私の生涯は、来年(1917年)の1月1日以前に終わる」――と。しかもラスプーチンは、こんな予言まで残していた。

 

「もし私が農民に殺されるのであれば、皇室は数百年にわたって安泰である。しかし、私が貴族、皇帝の親族に殺された場合、皇室のなかには2年以上生きるものはひとりもおらず、25年のうちにロシアから貴族はいなくなるだろう」

 

いうまでもなく、この予言も成就した。1917年に起こったロシア革命でロマノフ王朝は崩壊。ロシア最後の皇帝とその一族は、翌1918年に全員が銃殺された。ロシアは社会主義国のソ連になり、貴族階級も一掃されたのだ。

 

ラスプーチンは、自らの命をかけた最後の予言も的中させて死んでいったのである。

(「決定版 超能力大全」より掲載)

編=オカルト雑学探究倶楽部

 

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