「男の先生が体に触れた」…階段から転落しそうだった女子生徒を守ったはずが“加害者”に!? 令和の学校に寄せられる“保護者からのヤバいクレーム”のリアル
体調不良で保健室へ向かう女子生徒が、階段でふらついて転落しそうになった。男性教員はとっさに生徒の肩をつかみ、「しっかりしろ!」と声をかけて事なきを得たのだが……その日のうちに保護者から「男の先生が体に触れた」「大声で怒鳴られた」と猛烈な抗議が入る。
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翌日、教頭が「転落を防ぐための対応だった」と事実関係を説明するも、母親から返ってきたのは、耳を疑う言葉だった--。教育業界に詳しい西岡壱誠氏の著書『カスハラ化する保護者たち』(星海社新書)の一部を抜粋し、教育現場を襲う理不尽なクレームの実態を紹介する。

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◆◆◆
体調不良の生徒を守ったつもりが……
A教頭の携帯電話が鳴ったのは、放課後の職員室だった。
画面に表示されたのは、若手の体育教員、B先生の名前だった。
「A教頭、少し……お時間よろしいでしょうか」
普段は明るい声の彼が、そのときはひどく弱々しかった。
私はすぐに異変を感じた。
「どうした。何かあったのか」
「保護者から連絡が来まして……。たぶん、自分の対応が悪かったのかもしれません。
でも、何が悪かったのか、自分でも分からなくて……」
B先生の顔色は青かった。
まだ二十代後半。教員5年目の、真面目で一生懸命な青年である。生徒からの信頼も厚く、授業も部活動も手を抜かない。そういう若い教員ほど、ひとたび保護者対応でつまずくと、自分を責めてしまう。
「順番に話してくれ」
B先生は何度か言葉を詰まらせながら、その日の出来事を説明した。
体育の授業中、二年生の女子生徒が顔色を悪くしていた。
立っているのもつらそうで、「先生、保健室に行きたいです」と訴えた。B先生は授業を他の教員に任せ、その生徒を保健室へ連れていくことにした。
ここまでは、何の問題もない。いや、学校現場の感覚でいえば、むしろ当然の対応だ。
問題は、その先にあった。
B先生は男性教員だった。体調不良の女子生徒を支える場面で、肩に手を回す、腕を取る―― そうした行為が、あとからどう受け取られるかを彼は恐れていた。今の学校では、その警戒は決して大げさではない。善意の接触でも、「不用意だった」「配慮が足りなかった」と問題化することがある。
だから彼は、できるだけ触れないようにした。少し距離を保ちながら、生徒の横を歩いた。
「大丈夫か。保健室までもう少しだからな」
体育館から保健室へ向かうには、階段を下りなければならない。
その途中で、生徒の足元がふらついた。
一瞬だった。
B先生は反射的に手を伸ばし、生徒の肩をつかんだ。
転倒を防ぐためだった。もし支えなければ、そのまま階段から落ちていたかもしれない。
「大丈夫か! しっかりしろ!」
とっさに声も大きくなった。
だが、それは叱責ではなく、転落寸前の相手を支えるときの、人間として自然な反応だったはずだ。
生徒は転ばずに済んだ。
B先生はそのまま保健室まで付き添い、引き継ぎも済ませた。
彼は、それでこの件は終わったと思っていた。
だが終わらなかった。その日のうちに、保護者から学校へ強い抗議が入ったのである。
「男の先生が娘の体に触れた」
「大きな声で怒鳴られた」
「体調が悪い子に対する配慮がまるでない」
その面談を、教頭である私が受けることになった。
保護者からの不満
翌日、応接室に現れた母親は、最初から怒っていた。椅子に座るなり、挨拶もそこそこに言った。
「先生方は、娘がどれほど傷ついたか、分かっていらっしゃるんでしょうか」
私は深く一礼し、慎重に言葉を選んだ。
「このたびは、お嬢さんの体調不良時の対応でご心配をおかけし、申し訳ありません。
まず事実関係をご説明いたします」
「それで?」
視線が鋭かった。
説明を求めているというより、学校がどう非を認めるかを見定めている目だった。
「担当したB先生から詳しく聞いております。お嬢さんを保健室へお連れする際、当初は不用意に接触しないよう配慮し、距離を保ちながら付き添っていました。ただ、階段でお嬢さんがふらつかれたため、転倒を防ぐためにとっさに肩を支えたとのことです」
「でも、触ったんですよね」
母親は間髪を容れずに言った。
「はい。ですが、転落を防ぐための対応で―― 」
「男性の先生が女子生徒に触れるなんて、あってはならないことです」
「それは学校側の都合ですよね」
私は、言葉を一つ飲み込んだ。
「もし触れずにいて、お嬢さんが階段から落ちていたら、大きな怪我につながった可能性があります」
「そんなの、触らずに済む方法があったはずです」
「たとえば、どういう方法でしょうか」
「女性の先生を呼ぶとか」
「授業中の緊急事態でした。お嬢さんご本人が、今すぐ保健室に行きたいと訴えておられたのです」
「だからって、怒鳴る必要はありませんよね」
「怒鳴ったわけではなく、転倒しそうになった場面で、とっさに声が大きくなったのだと思います」
「娘は『怒鳴られた』と感じたんです」
この瞬間、私はこの面談の難しさを理解した。
この件の争点は、行為が適切だったかどうかではない。
相手の中ではすでに、「娘がそう感じた」という一点が絶対的な事実になっている。
「娘は、体調が悪くて不安だったんです。そのときに男の先生に肩をつかまれて、大きな声で『しっかりしろ』なんて言われた。どれだけ怖かったと思っているんですか」
「お嬢さんが不安な思いをされたことは重く受け止めています。ただ一方で、現場は階段の途中でした。教員としては、まず転倒を防ぐことが最優先になります」
「それは学校側の都合ですよね」
私は一瞬、返答に詰まった。
安全確保が「学校側の都合」になるのか。だが、その理屈を正面から否定すれば、さらに感情は硬化するだけだろう。
「この子が苦痛を感じたときに、その気持ちを代弁してやれるのは、親しかいないんです」
母親はそう言った。私はその言葉の強さを感じた。
たしかに親は、子どもの最も近くにいる存在だ。
だが、その“代弁”が、事実の検証や相手の事情の理解を一切許さなくなったとき、対話は成立しなくなる。
面談はそこで終わらなかった。
私は何度も説明した。
◆◆◆
「娘が傷ついた事実がすべて」――そう主張し、一切の論理を受け付けない母親との面談は、ついに4時間を超える異常事態へ。
絶対に折れない保護者を前に、組織を守るため教頭が下した“苦渋の決断”とは。そして、生徒を救って“加害者”扱いされた若手教員にかけた言葉とは。後編では、理不尽な面談の結末と、教育現場を蝕む「どちらを選んでも詰む」病理に迫る。
〈「触っても、触らなくても責められる」精神疾患で休職する教員が“過去最多”に達した日本の学校が抱える“キビシイ現状”とは〉へ続く
(西岡 壱誠/Webオリジナル(外部転載))
