「あのとき助けていただいたブラックサンダーです」1年で生産中止も…大ヒット商品に成長 “30年前の恩人”を大捜索

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「九州のみなさん、あのとき助けていただいたブラックサンダーです」 

7月17日、チョコレート菓子「ブラックサンダー」を生産する有楽製菓が、九州7県の新聞にこんな一面広告を出した。

一体どういうことなのか、広告を出した有楽製菓のマーケティング部長に聞くと…。

有楽製菓マーケティング部 杉田晶洋部長(42):
ブラックサンダーは、今年9月で30周年を迎えるんですけども、過去の30年間を振り返ると、発売して1年足らずで「売れないから終売しよう」という話があった。

なんと、今や多くの企業とコラボする絶好調のブラックサンダーにも生産中止に追い込まれた暗い過去があるという。では、なぜ今も製造が続いているのか。

7月の新聞の一面広告には「九州の一部の店舗さんが、人気があるからまた売って欲しいと、復活を望む声を上げてくださったんです」「ブラックサンダーは恩人を探しています」と書かれていた。

有楽製菓マーケティング部 杉田部長:
そのストーリーがなければ、今のブラックサンダーはないということです。

復活を望む声を上げてくれた人たちに感謝を伝えたい。これが広告の狙いだった。

“問題児”の「ブラックサンダー」1年で生産中止に

ブラックサンダーは、誕生からしてかなりの“問題児”だったという。

有楽製菓 河合伴治会長(71):
(当時)うちの会社は下請けの仕事が非常に多くて、せっかく菓子屋やってるんで自社ブランドの商品が作りたいと。

そう語るのは、当時専務だった河合伴治会長。

一念発起した河合会長は、これまでの駄菓子業界にはなかった、食べごたえのあるチョコレート菓子を作りだし、そこに、当時大人気だった戦隊モノにあやかって「ブラックサンダー」と名付けてみたという。しかし、現場の社員からは…。

有楽製菓OB(当時営業担当)中島進一さん(68):
「なんで『ブラックサンダー』なんだ」って思いましたけど。

有楽製菓(当時生産ライン責任者)高橋通昭さん(61):
正直言うと「面倒くさいな」って思っていました。「ブラックサンダー」になると、特に黒い原料が入ってくるので、清掃しなきゃいけない時間が増えるんです。

しかも、原材料にもこだわったことから、一つ30円(当時)という価格設定も問題になったという。

河合会長:
(問屋からは)「値段が高いから難しいかもしれないよ」って言われてて「どうですか、どうですか?」って聞きに行っても、あまり色良い返事は来ない状態が1年。ちょっと無理だったかなと。

こうした状況に、元々、乗り気でなかった社員たちは…。

高橋さん:
絶好のチャンス到来ですよね。率先してやめようっていう派でした。

こうして、わずか1年で生産中止に追い込まれたブラックサンダーだったが、当時専務だった河合会長に対して「ブラックサンダー生産中止って本気ですか?ブラックサンダーはおいしいし、これからの商品ですよ!」と、社内でただ一人、製造継続を主張した社員がいた。

その人は、元いた菓子メーカーでもチョコレートに情熱を傾けていた、森園さん(当時56)という“熱血営業マン”だった。

河合会長:
九州の駐在の営業マンで途中入社。それも結構いい年齢になって、うちに入ってこられたっていう方で。その方がブラックサンダーを大変気に入ってですね。「これはいい商品ができた」「素晴らしい」と。「やめる」と言ったら「何でやめるんだ」とかみつかれて。

森園さんは2024年に亡くなったという。家族に取材を申し込むと、森園さんの娘からこんな手紙が送られてきた。

「九州駐在である父は、自分自身でおいしいし、売れると思っていたのに、いきなり、中止と言われ、激怒。家の中でも『なんでだ、なんでだ、売れるとに、何でやめるのかがわからん。お客さんもやめんで欲しいと言いよるとに…』」

“恩人たち”が当時の人気ぶりを証言

客が「やめんでほしい」と言っているとすれば、九州でだけブラックサンダーが売れたのには、何か理由があるのではないか?そう考えたMr.サンデーは、会社が見つけた“恩人たち”に手がかりを求めた。

向かったのは福岡・北九州市。そこに、元菓子問屋の営業担当がいるという。 待ち合わせ場所は、いまはなき会社の跡地だ。

待ち合わせ場所に現れたのは、高田真史さん(65)。高田さんは販売中止を小売店に伝えた時のやりとりも鮮明に覚えているという。

高田真史さん:
(小売店の人は)「なぜ発売中止になったの?売れてるのに」という。(上司が)仕入れ担当してましたので、(上司に)「なぜだと要望が上がってますよ」と…。

おそらくは、その上司が森園さんに 「販売継続」を嘆願したはずだという。

高田さん:
他の所の県で売れなかったのが不思議なぐらい。本当「なんでだろう」しか、お答えのしようがないなと。

当時「販売継続」を直訴した駄菓子屋さんにその秘密を聞きたかったのだが、 当時の店はみな廃業し、手がかりは掴めなかった。当の有楽製菓も、森園さん亡き今、ここから先は分からないという。

ならば、Mr.サンデー独自でそのワケを探るしかない。そこで、九州全域に網を張り、電話をかけること約50軒。「お菓子の担当をしていて、なんとなく記憶している、一部のところで人気があった」と話す人物を見つけた。

その人物とは、福岡・八女市にある大正13年から続く駄菓子問屋「遊びの伝道 永松商店」の永松寿昭さん(57)。永松さんも当時のブラックサンダー人気をよく覚えていた。

永松寿昭さん:
営業に回っていくとすごい売れてて。私たちは全国こんなふうだと思って商売しているので当時。終売になったんですけど、それなんかもすごい反響で、一般の方が「ないですか?」とかっていう問い合わせがたくさん来ましたから。

そこで周囲を聞き込み、30年前に10歳前後だった人を探してみた。

――ブラックサンダーに関する取材をしておりまして。
木下雄大さん(41):
ブラックサンダー?僕は大好きでした昔から。常備してた感じですね。
――そんなにファンなんですか?
木下雄大さん(41):
大好きで、スリッパもありますよ。

八女市出身の女性(43):
買ってましたよ普通に。

八女市出身の女性(49):
お店に普通にあって、食べたらおいしかったから食べてる。

「中秋の名月」でもブラックサンダーが登場!?

やはり、このあたりではかなりブラックサンダーが浸透していたらしい。

その人気の秘密をさらに詳しく知る人物がいないか、町の人たちの協力も得て、人づてで探してもらったところ、八女市の北に位置する久留米市で、すごい仮説を唱える長老に出会った。

菰田馨藏さん(73):
中秋の名月で、うちの地区なんかは子供たちが集落の家を回って、お月さまにお供えしたものをいただいていくという風習が残ってるんですよね。

菰田さんによると、この地区には「中秋の名月」に「和製ハロウィン」とも知られる月に供えた旬の里芋を子どもたちがもらって回る風習があったという。

それがいつしか、里芋からお菓子に変わり、その中の一つにブラックサンダーがあったのではないかというのだ。

――(里芋に代わって)お菓子を配り始めたのは、何年ぐらい前からですか?
菰田馨藏さん(73):
50年近く前。

それなら、確かに30年前にブラックサンダーが配られていたかもしれない。そこで、最近撮影された「中秋の名月」の動画を集めてみたところ、大きな袋を抱えた子供たちが町内の家々を訪ね、お菓子をもらっている様子が確認できた。

実際に、2024年の「芋名月」に子供を参加させたという人物に接触すると…。

二又朋則さん(45):
(子供が)いろんな駄菓子を袋いっぱいもらってきてました。ブラックサンダー、見たら一個だけありました。

やはり、菰田さんの仮説は正しいのかもしれない。ということで、二又さんに発売当時小学生だった友人に、芋名月でお菓子をもらった時にブラックサンダーが入っていたかどうかを電話で聞いてもらったところ、友人からは「絶対あった!」という答えが返ってきた。

ついに、ブラックサンダー人気の原点解明となるのか?私たちはその友人の元を訪れた。

中野憲一さん(41):
もらったのは多分「芋名月」が初めてじゃないかな。もらってめっちゃ食べてた記憶があります。30年前なんで、10歳とか11歳ぐらい。駄菓子屋にもたまたまあって「あ、これや!」と思って。周りも食べてたと思いますよ。めっちゃ記憶残ってますもんね、あのお菓子は。

中野さんの妹・古賀有美さん(39):
お兄ちゃんが(ブラックサンダーを)食べるから、食べられないように自分で机に隠して。

中野さん:
それ取ってもばれんやろうと思って、取って食べるじゃないですか。数を数えてるんです。めっちゃ怒られるんです。

この地域一帯のブラックサンダー人気は、有楽製菓の森園さんの熱心な営業と「中秋の名月」で初めて食べた子供たちの記憶、そしてその思いをくみ、販売再開を呼びかけた駄菓子店らの熱い思いがひとつになっていたからだった。

内村航平さんも「大好き」 国民人気を不動に

そして発売から、約10年後。

日本生活協同組合連合会 渉外広報本部広報部 白石昌則さん(55):
ブラックサンダーに関する“ひとことカード”が載ってるのはこちらの本です。

“生協の白石さん”こと白石昌則さん。当時、大ブレイクしていた『生協の白石さん』という本でブラックサンダーが取り上げられると、大学生たちの間でジワジワと人気に火が付いた。

そして、発売から約14年後の2008年には、一時は存続の危機にさえあったブラックサンダーが、ついにオリンピックという大舞台でスポットライトを浴びることになった。

その立役者は、体操で7つのメダルを獲得したレジェンド、内村航平さん(35)だ。

体操男子五輪金メダリスト 内村航平さん:
新聞記者さんに「北京にこれだけは持ってきたいものありますか?」と聞かれ「30円のお菓子知ってますか?」って言って「それを持って行きます」と言っただけなんです。

この偉大すぎるアスリートの一言で国民人気を不動にし、ついに、ブラックサンダーは30周年を迎えた。

製造継続を主張した“熱血営業マン”森園さんの娘がくれた手紙には、こう綴られていた。

「内村さんが大好物だとTV等でわかり、『ほうら、やっぱりネ』と話してた顔は、とても嬉しそうでした」
「よかったネ。亡くなってからも大事にしてもらって今度、TVで特集まで組んで放映されるみたいよ」
(「Mr.サンデー」9月29日放送より)