ChatGPTなどの生成AIは、本当に人間の仕事を奪うのか。京都大学大学院教授で京都哲学研究所の共同代表理事も務める哲学者の出口康夫教授は「『何ができるか』を競うとAIには敵わない。私たちが考えるべきは『人間には何ができないか』ということだ」という――。

※本稿は、出口康夫『AI親友論』(徳間書店)の一部を再編集したものです。

写真=iStock.com/Supatman
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Supatman

■「人間失業時代」は本当にやってくるのか

数年前、「技術的シンギュラリティ(特異点)」という言葉が話題になりました。この「シンギュラリティ」とは、AI(人工知能)が進化して、人間の知性と並び、ついにはそれを凌駕し、抜き去る事態を意味していました。

もちろん、このようなシンギュラリティがそもそも実際に起こりうるのか、また起こるとすると、いつ、どのような形で起こり、それが僕らや社会にどのようなインパクトを与えるかについては、さまざまな議論が交わされました。

実際、AI研究者の間でも、このような意味でのシンギュラリティが到来する可能性について懐疑的な声が聞かれました。

一方、シンギュラリティが社会に与える影響の一つとして、さまざまな仕事の担い手が人間からAIに置き換えられ、多くの職業がいわば「AI化」することで、結果として多くの人の働く場が奪われるという「シンギュラリティ大量失業時代」の到来を予測する向きもありました。

そのようななかで、イギリスの新聞に、AIによって奪われやすい職業のランキング一覧なるものが掲載され、その中には「哲学の教師」が、案外上位に、つまり「奪われやすい」部類にランクされていて、僕も苦笑した覚えがあります。

このようなシンギュラリティをめぐる議論がやや落ち着きを見せたかと思いきや、今度はChatGPTなどの生成AIの開発が爆発的に進み、それが急激に社会に普及することで、現在、論議を巻き起こしています。

■ルーチン化可能な業務は確実にAI化される

ChatGPTの情報処理・文章作成能力の向上は、まさに日進月歩の勢いです。僕も先日、企業コンサルタント業務をこなす生成AIのデモを見せていただきましたが、膨大な情報を博捜し、文字どおり、あっという間にクライアント企業に対する提案書を作成してしまうその手際の良さに、これまた文字どおり、あっと驚きました。

このようにChatGPTが本格的に企業に浸透すると、少なくとも既存の情報を収集し、一定のフォーマットに基づいて分析し、そこから一定の課題解決の処方箋を導出するようなタイプの、ある程度ルーチン化可能な知的業務は、確実にAI化されるでしょう。結果として人間の職が奪われる事態も、容易に予測されます。

数年間は、起こるとしてもまだまだ先の出来事だと思われていたシンギュラリティ、そしてそれに伴うシンギュラリティ失業が、近未来の現実として、僕らの目の前に、突きつけられているのです。

■人類全体に突きつけられる「人間失業」

シンギュラリティ失業は、確かに深刻な問題です。AI化によって消え去る恐れのある仕事の一覧、いわば「絶滅危惧種リスト」の上位にランクされた職にある者として、僕にとっても他人事ではありません。

しかし、生成AIの「爆誕」に象徴されるシンギュラリティは、単にコンサルタントや哲学者などの(多かれ少なかれ)知的な職業に関わる個々の失業問題を超えて、より深刻で、より根深く、より広範な問題を、人類全体に突きつけているようにも思えます。その問題を、ここでは「人間失業」と名づけておきましょう。

では、「人間失業」とはなんでしょうか? それはどのようなメカニズムで発生するのでしょうか? またそれを解決する、ないしは回避する方策はあるのでしょうか? もしあるとしたら、それはどのようなものなのでしょうか?

以下では、これらの問題を考えていくなかで、西洋哲学に端を発し、近現代社会におけるデファクトスタンダードとなっている人間観、すなわち「できること」を基軸とする人間観を炙り出し、それに対するオルタナティブとして「できなさ」に焦点を当てた人間観を提案していこうと思います。そのうえで、この「できなさ」を踏まえ、「WEターン」と僕が呼んでいる、価値観の転換を素描していきます。

■人間の自尊心、尊厳の源泉

人間は、さまざまな能力を持ち、多様な機能を備えています。僕らは歩くことも、走ることも、言葉を話すことも、考えることも、他人の心を汲み取ることもできます。

けれども、言うまでもなく、これらの能力や機能はどれもこれも無際限ではなく、たかだか有限です。従って、ある特定の能力や機能に関して、人間より優れた能力や機能を備えた存在者――これを「凌駕機能体」と呼びましょう――も当然、存在していますし、また存在しえます。例えば、人間より速く走ることができる動物はザラにいるのです。

それだけではありません。人間は自分の能力を超えた機能を持つ人工物を次々と発明し、人間の営みを、その人工的な凌駕機能体の動作に置き換えることで、自分たちの生活を便利にしてきました。馬車や自動車や飛行機といった移動手段も、そのような人工的凌駕機能体の一例です。

しかしながら、自然物であれ、人工物であれ、このような機能体によって自分の何がしかの機能が凌駕されたからといって、人間の自尊心、自負心、さらには尊厳や「かけがえのなさ」は1ミリたりとも、すり減ったり、揺らいだりすることはありませんでした。

なぜでしょうか?

■「知的能力」だけは取って代わらないと思い込んでいた

答えは、明らかです。人間は、他の動物や人工物が逆立ちしても敵わない能力ないしは機能を持っており、それを備えていることに自らの尊厳や「かけがえのなさ」を見出してきたからです。

さまざまな凌駕機能体が登場し、さまざまな能力が乗り越えられ、凌駕されたとしても、そのような、自分が一番だと言える能力や機能――それを「一番能力」ないしは「一番機能」と呼びましょう――に関する優位性が保たれている限り、人間の自負心や尊厳は安泰だったのです。

そのような人間にとっての一番能力ないしは一番機能とは、言うまでもなく「知的能力」です。

人間は、その「知的能力」に関しては、この地球上のあらゆる存在よりも優れており、それをもっている限り、例えば移動や運搬といった仕事が機械によって次々に取って代わられたとしても、その「知的能力」に関してだけは、凌駕機能体による代替は起こらないし、起こりえない。人間は、そのように考えていたのではないでしょうか。

凌駕機能体によって置き換えられることを「かけがえのなさ」の喪失だとすると、知的能力に関してだけは、そのような喪失は起こらない。このように「知的能力」は人間の「かけがえのなさ」、そしてそのような「かけがえのなさ」としての「尊厳」の「最後の砦」だったのです。

写真=iStock.com/BlackJack3D
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/BlackJack3D

■生成AIの開発をやめる以外の選択肢は取り得るか

しかし、AIの登場によって、この「最後の砦」も危うくなってきました。いわんや、AIが人間の知的能力を凌駕するシンギュラリティが起こってしまえば、「最後の砦」もついに陥落の時を迎えることになります。

人間の「かけがえのなさ」や尊厳、さらには自尊心や自負心を支えていた「最後の砦」である「知的能力」という「一番能力」に対してすら、ついに凌駕機能体が登場し、結果として、人間の「かけがえのなさ」や尊厳が失われ、自尊心や自負心がズタズタになる。これが「人間失業」です。シンギュラリティとは実は、このような人間失業をもたらす事態でもあったのです。

では、人間失業、すなわち人間としての尊厳や「かけがえのなさ」が失われる事態を防ぐためにはどうすればいいのでしょうか? 人間の知的尊厳を守るために、生成AIなどの開発をやめるべきなのでしょうか?

そのような発想も当然ありえます。しかし、ここではそれに対するオルタナティブ、別の道を考えてみましょう。

■他の「できること」に尊厳を求めても問題は解決しない

例えば、人間の尊厳や「かけがえのなさ」を「知的にできること」から別の「できること」に置き換えるという方策も考えられています。「知的能力」が凌駕されてしまったのであれば、まだ凌駕されていない他の「できること」に「かけがえのなさ」を求めればいいというわけです。

しかし、他者の気持ちに共感できること、コミュニケーションをとれること、感情を抱けること……どのような能力や機能であっても、それらはたかだか有限であることに変わりありません。それらを超える凌駕機能体は原理的に存在する可能性があるのです。単に人間の尊厳を「知的にできること」に置くことをやめるというのでは不十分なのです。将来そのような機能体が出現した場合、やはり人間失業は避けられません。

例えば、人間より優れた共感能力を備えたロボットや、肉体や意識を伴った人工生命が生み出された場合、凌駕機能体が現実のものとなり、共感能力という最後の砦が陥落する事態が起こるのです。

人間の「かけがえのなさ」を何らかの「できること」に置く以上、それらを凌駕する凌駕機能体が生み出され、「かけがえのなさ」が奪われてしまう未来はいずれにせよやってくるのです。

■無能な人を理想とする思想

人間の尊厳や「かけがえのなさ」を「できること」に置く発想の背後には、西洋哲学で長らく幅を利かせてきた「機能主義的人間観」が控えています。

機能主義的人間観とは、人間を、知性・感情・意志といった複数の機能の「束」と捉える考えです。これらの機能のうち、何が支配的で一番重要かは哲学者によって意見が分かれます。

例えば、デカルトやカントやヘーゲルは知性や理性が一番重要だと考えました。それに対して感情こそが主人公だと言ったのがヒュームやフォイエルバッハ、いやいや一番の支配者は意志だと主張したのがショーペンハウワーやニーチェです。

機能とは「何かができる能力」です。人間を機能の束として捉えるとは、人間を「できること」の束と見なすこと、「できる存在」とすることに他ならないのです。

一方、例えば東アジアには、「できる」人間ではなく、むしろ「できない」人間、無能な人を理想とする「聖なる愚者」とでも呼べる思想伝統があります。例としては、老子の「混沌たる愚者」、法華経の「常不軽菩薩」、宮沢賢治の「デクノボー」などがあげられます。

以下では、このような伝統を踏まえ、人間の尊厳や「かけがえのなさ」を「できること」に置くこと自体を自明視せず、それに対して疑問を投げかけ、それに対するオルタナティブを探ること。「できること」ではなく、「できなさ」を基軸に据えた人間観、そして「できなさ」にこそ、人間の尊厳や「かけがえのなさ」があるとする考えを、提案し、素描してみたいのです。

■人間の持つ二つの「根源的なできなさ」

ここで僕が着目するのは、「わたし」=個人としての人間は、「自分一人では何もできない」ということ、そして自分の行為を支えてくれる数多くのエージェントのうち、どれ一つをも「完全にはコントロールすることができない」ということ。これら二つの「できなさ」です。僕は前者の「できなさ」を、「単独行為不可能性」、後者を「完全制御不可能性」と呼んでいます。

この二つの「できなさ」は、人間であれば誰にでも備わっており、そこから逃れる術がないという意味で「根源的なできなさ」を持っています。いや、人間のみではなく、AIやロボットを含めたすべての人工物、すべての自然物、この世のありとあらゆるエージェントに備わった「普遍的なできなさ」でもあります。

一人でできないことは世の中に数多くあります。例えば、チームプレーである野球やハーモニーを楽しむ合唱といった集団行為は、当然ながら一人ではできません。一方、ランニングや独唱といった一人でできる行為、すなわち「単独行為」もたくさんあるように思えます。本当に僕らはランニングや独唱ですら一人でできないと言えるのでしょうか。

■「自転車に乗る」ことも一人ではできない

いま、自転車乗りという、これまた一見、単独行為と思えるケースに即して、考えてみましょう。

写真=iStock.com/lzf
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/lzf

確かに自転車に乗ってペダルを漕いでいるのは「わたし」一人です。でも、そもそも自転車がないと、自転車乗りという行為は成立しません。

それだけではありません。自転車が走る道路がないと「わたし」は自転車を上手く走らせることができません。信号や横断歩道などの交通インフラも必要でしょう。

また、適切な大気圧や重力がなければ、「わたし」はフラフラと宙に浮いてしまい、自転車を漕ぐどころではなくなってしまいます。さらに、何百年か前に、誰かが自転車を発明していなければ、「わたし」が今日、自転車に乗ることもなかったでしょう。

加えて、自転車が製造されて販売されていなければ、わたしの自転車乗りもこれまた成り立たなかったはずです。

「わたし」の自転車乗りという行為には、多くの人々、生物、無生物、自然環境、生態系、社会システム、歴史上の出来事といった多種多様のエージェントが関わっているのです。そして、それらの支え、助け、アフォードがなければ、「わたし」の自転車乗りという行為は遂行できないのです。

言い換えると、これら多種多様で無数のエージェントからなるシステム――これを「マルチエージェントシステム」と呼びましょう――がなければ、自転車乗りという行為は成立しないのです。

もちろん「わたし」は、この自転車乗りという行為にとって欠かせないエージェントです。でも今、お話ししたように「わたし」だけでは、自転車乗りという行為は成り立ちません。「わたし」は、行為にとって「必要なエージェント」であっても、「わたし」さえいれば行為が十分に成り立つという意味での「十分なエージェント」ではないのです。

同じことは自転車にも、道路にも、上で列挙した、その他の多くのエージェントについても言えます。それらの各々も、必要なエージェントではあっても、十分なエージェントではなかったのです。

以上のことは自転車乗り以外のすべての身体行為、例えば、ランニングや独唱についても成り立ちます。

「わたし」は一人では何もできない存在なのです。単独行為は不可能なのです。

■「わたし」は常に「われわれ」に支えられている

このような「できなさ」、単独行為不可能性は必ずしもネガティブな意味のみを持つわけではありません。

いま、マルチエージェントシステムを、「わたし」を含んだ多数のエージェントからなる存在であるという意味で「われわれ」と呼びましょう。すると「わたし」は生きて身体行為をしている限り、つねに、その都度、成り立つ「われわれ」の一員として、「われわれ」に支えられてあることになります。

このように、単独行為不可能性は、「わたし」が生きて行為をしている限り、つねに「われわれ」と共にあることを意味しています。

もちろん、「わたし」がどのような行為をしているかによって、その都度の「われわれ」も変わります。しかしいずれせよ、「わたし」のまわりにはつねに何からの「われわれ」がいてくれるのです。「わたし」にとって「われわれ」は着脱可能な衣装のような存在ではありません。

言い換えると、すべての「われわれ」を脱ぎ捨てても存在する「裸のわたし」なるものは単なる幻想です。「われわれ」は「わたし」にとって不可逃脱的な存在なのです。

このように、単独行為不可能性としての「できなさ」は、「わたし」がつねに既に必ず「われわれ」の一員としてあり、「われわれ」に支えられてあることを意味しています。それは、このようなポジティブな事態を指し示しているという意味で、それは、「われわれ」に対して開かれた「できなさ」だったのです。

■何かを「できない」ことはかけがえのないこと

このような単独行為不可能性を抱えた「わたし」はまた、マルチエージェントシステムとしての「われわれ」にとって「かけがえのない」存在でもあります。「わたし」がいなければ、それを支える「われわれ」は、そもそも、存在しようがないのです。

マルチエージェントシステムは、「わたし」が存在しなければ雲散霧消してしまうのです。

出口康夫『AI親友論』(徳間書店)

この意味で、「わたし」は「かけがえのない」存在です。このような「わたし」の、「われわれ」にとっての「かけがえのなさ」は、「わたし」の「できること」とは無縁です。

「わたし」は、何かができたり、何かの能力を持っているから、「われわれ」にとってかけがえのない存在なのではありません。むしろ逆に、「わたし」は一人では何もできないからこそ、「われわれ」を成立させ、その「われわれ」にとって「かけがえのない」存在となっているのです。

そして、このような「わたし」の「かけがえのなさ」は、「わたし」が生きて行為をしている限り失われることはありません。天涯孤独な「わたし」であっても、大した取り柄のない「わたし」でも、みんな、この「できなさ」としての「かけがえのなさ」を持ち、それを失うことはありません。「できなさ」としての「かけがえのなさ」を持たない人は、誰もいないのです。

「わたし」は「できる」から「かけがえがない」のではありません。「できない」からこそ「かけがえがない」のです。

このような「できなさ」としての「かけがえのなさ」は、どのような凌駕機能体が現れても失われることはありません。たとえ「わたし」より、より「できない」存在がいたとしても、「わたし」が「わたし」なりのできなさを抱えている以上、「わたし」は「わたし」の「われわれ」にとって「かけがえのない」存在であることには変わりがないのです。

ここでは人間失業は起こりません。逆に言えば、機能主義的人間観を捨てて、人間を単独行為不可能性を抱えた「できない」存在と見なすことが人間失業を防ぐ一つの手立てとなりうるのです。

----------
出口 康夫(でぐち・やすお)
京都大学大学院文学研究科教授、京都哲学研究所共同代表理事
大阪市生まれ。京都大学文学部卒、同大学院文学研究科博士後期課程修了。二“人”の犬とともに京都に暮らす哲学者。1996年に「超越論的実在論の試み:批判期カント存在論の検討をつうじて」で博士(文学)の学位を取得。その後、名古屋工業大学講師、京都大学大学院文学研究科哲学専修助教授、准教授となり、2016年に現職。京都哲学研究所の共同代表理事も務める。親しい仲間とお酒を飲むことが大好き。
----------

(京都大学大学院文学研究科教授、京都哲学研究所共同代表理事 出口 康夫)