8月1日、ウクライナ軍の攻撃を受けた東部ドネツク州の現場(写真:タス/共同)

今もなお戦争が続くウクライナ。前線に近い東部地域では、多くの人が国外や国内の他の地域に避難した。しかし、現地には避難ができず、空襲や砲撃に日々おびえながら暮らす人がいる。多くは貧困層や移動が難しい高齢者たちだ。

この夏、東部ドネツク州で、国境なき医師団(以下、Médecins Sans Frontièresの略称からMSFと表記)の緊急対応コーディネーターとして、プロジェクトチームを3カ月にわたり指揮した萩原健氏が、現地での活動の様子を報告する。

半年ぶりのウクライナ

私が日本を発ったのは、G7広島サミット閉幕直後の5月末。ウクライナへの追加軍事支援や反転攻勢の可能性がしきりにメディアで取り上げられていた頃だった。

ポーランドから陸路入国し、東に進む車窓から見た風景は、行き交う商用トラックや路面電車、スーパーに雑貨屋、そして日常生活のなかでにぎわう軽装の人々の姿で、そこは観光地と錯覚してもおかしくなかった。

しかし、ウクライナ東部にあるドニプロを過ぎてドンバス地方に入ると、一般車両の数は激減し、代わりに軍用車や軍関係者の姿が目につくようになる。空襲警報の頻度も段違いに増えていった。戒厳令下のドネツク州では夜9時以降は外出禁止、夜8時には街から人の気配は消えていた。

2022年2月24日にロシアのウクライナに対する軍事作戦が開始されてから1年3カ月が経っていた。MSFは継続して緊急援助の対象としてとらえ、医療・人道援助活動を展開している。

活動は、国内避難民援助や医療施設支援、列車と車両による救急医療搬送支援、医薬品提供、理学療法、心のケア、プライマリー・ヘルスケア(基礎医療)、越冬支援など多岐にわたり、2022年度のウクライナでの活動予算は4810万ユーロ(約76億円)に上った。

今回、私が派遣された地はドンバス地方ドネツク州。紛争前線から50キロほどに位置する町、スラビャンスクとポクロフスクに拠点を構えていた。

MSFは刻々と変化するニーズに応じて活動を展開してきた。

戦闘激化から1年以上が経つと、避難民を取り巻く環境は変わり、人々が直面する事情も多様化してきた。

私は昨年の8月から10月にもウクライナ東部で活動に参加したのだが、約半年ぶりに現地に赴いて、明らかに変化を感じた。それは、前線を超えた人々の行き来がなくなっていたこと、州内でも比較的安全と思われる都市には人々が戻ってきていたことだった。

ただ、それは安全上のリスクがなくなったからではない。いったんは州外の都市部に避難したものの、そこでの暮らしは精神的、経済的負担が大きく、避難生活に限界を感じたため、という話を現地ではよく耳にした。


ウクライナにおけるMSFの活動。2023年6月3日時点©MSF

医療サービスの途絶えた村々

首都キーウおよびリビウ、ドニプロなどの大都市では、救急救命や高度な医療を提供できる医療施設があり、空爆などの大規模攻撃にも対応できる態勢は整っているといえる。一方、遠隔地、とりわけ前線に近い地域の村々の状況は、それとは大きく異なる。

医療サービスが途絶えた村々に残った人々は、病やケガで生命の危機に直面したとき、それを受け入れる以外の選択肢がない環境での生活を強いられていた。

MSFは2014年のロシア軍によるクリミアおよびウクライナ東部への侵攻時にも活動し、遠隔地での医療体制の脆弱性を認識していた。それだけに、今回の軍事侵攻が及ぼす影響についても大きな懸念を抱いていたが、事実、遠隔地の医療体制は急激に悪化した。

かつて人口1000人規模だった村は、半減どころか数百人のレベルにまで減少していた。

退避できる者は村を去り、村に残った人びとの多くは年金生活者の高齢者だった。砲弾の音はほぼ毎日のように村の周りのどこかで響いていて、不発弾のリスクさえあり、村人は極力外出を避けていた。

危篤状態であれば救急車を電話で呼べるが、いつ手配されるか保証はない。そうかといって、なけなしのわずかな年金を使ってタクシーを呼ぶこともむずかしい。

多くの医療従事者は村を去り、医薬品もままならず、フェルザーと呼ばれる地域医療の従事者がいくつかの村々をかけもってその場をしのいでいたが、限界があった。数少ない雑貨店や薬局は姿を消し、いつ来るかわからない人道援助物資に依存していた。

このような理由から、私が統括したプロジェクトは基礎医療の援助に踏み切った。医療サービスが途絶えた村々で、移動診療を通じた基礎医療と心理的サポートを軸とした活動を開始した。


ドネツク州内の村を回り移動診療を行うMSFチーム。イリーナ・ウドベンコさん(写真中央)は「村には交通手段は何も残っていないので、こうしてお医者さんが来てくれるのでとても助かっています」と話す。2023年8月10日 ©Yuliia Trofimova/MSF

安全リスクと医療的価値のはざまで

私の赴任後の6月末時点で、MSFのチームは前線から約30キロ圏内に点在する200以上の村(総推定人口約2万5000人)と連絡を取り、状況を把握。活動場所を特定し、移動診療の範囲を大幅に拡大した。村に残っていた人々は数百人程度かそれ以下でも、半径数キロの範囲で括ってみれば千人単位になった。

活動場所を特定するにいたる議論のなかで最も悩ましかったのは、安全上のリスクと、リスクをとって提供できる医療的価値のバランスだった。

過去1年間直接砲撃を受けたことがなかった訪問予定の村に訪問前日、砲弾が着弾したこともあった。現場の情勢が安定していても、道中の情勢が不安定なこともある。移動診療に使う車両自体が被弾するリスクもあった。安全確保のため、状況を“読む”ことが必要とされた。

診療はかつて医療サービスが提供されていたFAP(First Aid Point)と呼ばれる施設や、使われなくなった学校、幼稚園など公共の建物の一角を利用した。

現場での滞在時間を極力短く抑えるため、診察する患者は事前了解をとった人だけに制限したが、それでも実際行ってみると、多くの患者が待っていることがあった。

遠方から歩いてきた高齢の患者の目を見て断ることが、どれほど心苦しいことか想像するにかたくないだろう。また、自力で診療場所まで来られない患者のために、訪問診療を頼まれるのはいつものことだった。

紛争地域での移動診療は、数十分間、数百メートルの差が安全リスク管理上、大きな意味を持つ。鳴りやまない砲弾の音のもとで診察することは稀ではない。道中、どこからか発射されたミサイルの閃光と煙の下を通過することもあった。

ドネツク州内でも最前線から少し離れた行政区画の中核都市の状況は、遠隔地とは異なる。

例えば、MSFの拠点があったポクロフスク、スラビャンスクや活動地域内にあるクラマトルスクなどには、病院、行政、軍関係施設など、基幹となるインフラが集まり、複合商業施設さえある。

空爆は日常的ではないが、有事となると被害の規模は大きくなる。警報が発令されない状況で空爆を受けるケースも多い。私の3カ月間の派遣期間中だけで、少なくとも10回以上の攻撃があった。

空を引き裂くかのような音

8月7日午後5時過ぎ、2発のミサイルがポクロフスクの街を襲った。

最初の1発は1階にカフェがある集合住宅を直撃。その40分後、鋭利なもので空を引き裂くかのような音に続いて、爆発音が響いた。ガラス飛散防止フィルムを貼った窓ガラスは強い衝撃でたわみ、直後に煙が上がった。

現場はMSFの宿舎から約800メートル。2発のミサイルにより7人が命を落とし、81人が負傷した。1発目の空爆直後に現場に急行し救助活動をしていた消防士や警察官の多くが負傷し、殉職者も出た。

夜を徹した捜索・救出活動により重傷者は即、病院に搬送された。翌朝、周辺の建物では飛散した窓ガラスの破片で負傷した人たちが見られた。

MSFは病院、当局と連絡をとりながら、病院に医療器具と医薬品を提供するとともに、現場では軽傷者の処置と応急心理ケア(PFA=Psychological First Aid)に取り掛かった。ケアを受けた人のなかには一般市民だけでなく、レスキュー隊員も含まれていた。

住民は、いたるところに飛び散った窓ガラスの破片を片付け、援助団体から配給された資材でふきさらしになった窓を応急的に塞いでいた。

体力がない高齢者はアパートから出て助けを求めたものの、皆それぞれが忙しく右往左往しており、とはいえ自分では重い資材や大工道具を運ぶことができるわけでもなく、途方に暮れていた。


ミサイルの直撃を受けたポクロウスクの集合住宅。2023年8月8日 ©Ken Hagiwara/MSF

終わりの見えない世界

「ウクライナへの人道医療援助は必要か?」といった質問を受けることがあるが、人々の苦痛は1つの物差しで測り結論付けることはできない。

少なくともはっきりしているのは、それまでの平穏な生活が破壊され、長引く戦争状態は市民1人ひとりの努力だけで解決できる問題ではない、ということだ。

さらに私たちが懸念しているのは、前線の向こう側、つまりウクライナ政府支配地域の外側に暮らす人々の状況で、これまでの経験から、そこには非常に大きい人道的ニーズ、医療援助の必要性があるのではないかと危惧している。

9月6日、ドネツク州コスチャンチニウカの市場にミサイルが撃ち込まれ、多数の市民が死傷した。

9月10日、日本から外務大臣とその一行が首都キーウを訪問した。おそらく彼らが車窓から目にした風景は、私がポーランドから入国し、東へ向かう車中から見たそれとさほど変わらないものだっただろう。果たしてウクライナが戦時下であることをどれだけ実感できただろうか。

ウクライナの人道的危機はいまだ終わりが見えず、2年目の厳しい冬が近づいている。

(国境なき医師団 : 非営利の医療・人道援助団体)