石橋湛山に「不思議な縁」を感じるという日本総合研究所の寺島実郎氏(撮影/梅谷秀司)

東洋経済新報社の記者として帝国日本の植民地主義を批判し、戦後は政界に転身して内閣総理大臣に上りつめた石橋湛山。没後50年の節目にあたる今年6月、政界では超党派の議員連盟「石橋湛山研究会」が発足した。

『週刊東洋経済』11月13日発売の創刊記念号特集では「今なぜ石橋湛山か」を組んだ。メディアや政界で再び脚光を浴びる湛山について、政界、経済産業界、研究者それぞれの視点から捉え直した。

その1人が日本総合研究所会長の寺島実郎氏だ。日本中が大日本主義に熱狂していた時代に、なぜ湛山は植民地主義を否定する「小日本主義」を展開できたのか。寺島氏は、湛山の時代認識の広さと深さに着目する。

――石橋湛山という人物をどのように評価していますか。

日本中が大日本主義に熱狂していた時代に、石橋は『東洋経済新報』で「一切を棄つるの覚悟 太平洋会議に対する我が態度」(1921年7月23日号「社説」)や「大日本主義の幻想」(1921年7月30日、8月6日・13日号「社説」)を書いた。すべての植民地を放棄せよという、いわゆる小日本主義だ。


そのことをもって石橋を、時代にたった1人で立ち向かった孤高なる人物と捉える向きがあるが、私は違う見方をしている。

日蓮宗の僧侶の子として生まれた石橋は幼少期に両親の元から離され、寛容な教育法を旨とした僧侶、望月日謙に育てられた。

山梨尋常中学校(現・甲府一高)時代には2年も落第するが、そこで「青年よ、大志を抱け」で有名なクラーク博士の薫陶を受けた大島正健校長に出会う。成長期の多感な時期に、日蓮の教えから個人主義、民主主義に触れる経験をしたということだ。

早稲田大学時代には、哲学者ジョン・デューイからプラグマティズムを学んだ田中王堂に出会っている。哲学の価値基準を人間の社会生活に置いた哲学者だ。

そして東洋経済新報社で出会ったのが帝国主義を徹底的に批判していた植松考昭、そして三浦銕太觔だ。石橋は植松や三浦に鍛えられる中で知見を深め、言論人として頭角を現していった。

石橋はこうした人間山脈に揉まれ、鍛えられながらそそり立っていったという事実が、私はとても大切であると思う。

普通の日本人とは違った次元で世界を見た

――人は周囲の影響を受けながら成長していくものですが、石橋湛山もやはりそうであったと。

人からも、生きている時代からも影響を受けるものだ。しかし、石橋には普通の日本人とは異なる次元で世界を見つめる力があった。大日本主義に日本中が熱狂していた時代に、なぜ小日本主義を唱えることができたのか。それは1921年という時代を、深く、そして広く認識できていたからだ。

1919年からパリで第1次世界大戦の講和国際会議がベルサイユで始まった。戦勝国のアメリカ、イギリス、フランス、イタリア、日本などが出席したが、実質的に主導したのは米英仏の3カ国なかんずくアメリカのウィルソン大統領だった。ウィルソンはこの会議で国際協調と民族自決を唱え、これをうけ、国際的な紛争予防のための国際連盟が立ち上がった。

この国際連盟構想に日本は度肝を抜かれたと思う。西洋諸国の後を追って植民地獲得に走り、1915年には中国に「二十一カ条の要求」をつきつけた、いわば遅れてきた帝国主義の日本は、一転して立ち現れた国際協調や民族自決、国際連盟構想に驚いたはずだ。

さらに1921年には、そのアメリカが主導する形でワシントン海軍軍縮会議が開かれた。アメリカ、イギリス、フランス、日本の4カ国で太平洋の島々における相互の権利尊重と権利維持をはかる四カ国条約が結ばれたのだが、重要なことはこの四カ国条約の締結をもって、1902年から続いてきた日英同盟が破棄された事実だ。アメリカは、中国をめぐって日本と直接対決するときに備え日英同盟を解消しておきたかった。

要するに1921年という時代は、それまで世界には関わらない孤立主義的な動きをしていたアメリカが国際政治のど真ん中に現れ、アメリカ主導の世界秩序設計を急速に進めようとしているタイミングだった。

――アメリカ主導の国際秩序設計の動きに石橋湛山は気づけていたと。

時代の変化に目が開けていたのだろう。帝国主義も植民地主義も国の利益にならない。朝鮮半島や台湾など明治以降に日本が手にしてきた植民地をすべて棄て、一歩前に出て日本も世界秩序作りに参画すべきだという視界が石橋の中に生まれたのだ。

突拍子もないことを言ったわけでも、理想主義でものを言ったわけでもない。植民地主義の路線で進んでいったら間違うぞ、という指摘であり、要するに石橋は時代認識が広く、深かった。

戦後日本の土台は日米安保だけではなかった

――戦後はソ連や中国など共産圏との関係改善に力を注ぎました。

1956年に内閣総理大臣になった石橋は、吉田内閣の「向米一辺倒」な外交路線を修正し、日米関係を基軸としつつも共産圏との関係を改善させる多角的な国際関係作りに動いた。

そのことをもって石橋を理想主義者だとみる向きがあるが、石橋が総理大臣になった1956年という年の時代状況を冷静に考察すれば、そうではないことに気づくはずだ。

前年の1955年にはバンドン会議があった。音頭を取ったのは中国の周恩来とインドのネルーだ。アジアからの信頼を失っていた日本は、この会議に参加したことでアジアに帰っていくきっかけを得た。アメリカはバンドン会議に反対だったのだが、親米勢力を参加させたほうがアジア色を薄められるという判断から日本の出席を許容した。

バンドン会議に出席した高碕達之助首席代表は秘密裡に周恩来と会談し、ここで日中国交回復の伏線が引かれることになった。

もう1つ注目すべきは、日本が国連に加盟できた理由だ。1951年のサンフランシスコ講和条約と日米安保条約の締結によって日本は国際社会に復帰することはできていた。しかし1952年に申請した国連加盟は、ソ連が拒否権を発動し続けたことで実現しなかった。

それが1956年の10月、ソ連との国交が正常化したことを受けてようやく加盟が実現する。ソ連は拒否権を発動しなかったからだ。戦後日本が国際舞台に本格復帰できた背景にソ連との関係改善があった事実を見落としてはならないだろう。

バンドン会議、日ソ国交正常化、そして国連加盟。一連の流れを見つめると、戦後日本の進路を決めてきたのは日米安保だけではないことがわかる。石橋は時代の潮流を捉え、総理大臣を退いてからも中国、ソ連を訪問して日本との関係改善に努めた。戦後の日本が国際関係を多角化していくうえで石橋が果たした役割は、思想的な面も含めて極めて大きい。

――寺島さんが三井物産ワシントン事務所長だった1994年に上梓した『新経済主義宣言』は石橋湛山賞を受賞しました。

石橋湛山とは不思議な縁を感じている。

三井物産の「中興の祖」と言われた水上達三という人物がいた。三井物産の社長、会長を歴任し、私が三井物産に入社した1973年には相談役になっていたのだが、どういうわけか水上さんは新入社員の私に「これを調べてきてくれ」「あのデータを取ってきてくれ」とよく指示を出してきた。入社して数年間、私は水上さんのデータマンとして奔走した。

水上さんは、たとえば日本の貿易構造を見つめながら気になる統計を見つけたら、どうしてそうなっているのかを解明しようと「物資のこの部門に関して数字を追ってメモをしてきてくれ」という指示を私に出した。水上さんの指示で動きながら、こういうふうに構造を理解するのかと私は大いに勉強になった。中華料理屋のラウンドテーブルで日本経済を語る水上さんの話を、横でじっと聞くような機会も何度かあった。

私は経済産業人としてのものの見方、考え方をこの水上さんから学んだわけだが、実は水上さんは石橋と同じ山梨県立甲府第一高校の出身者で、石橋が主宰する勉強会にも参加していた。水上さんにとって石橋湛山はメンターのような存在だったのだ。

経済産業人のリアリズム

――石橋湛山・水上達三・寺島実郎というラインが浮かび上がります。

石橋は東洋経済新報社を率いていた人間。つまりアイデンティティは経済産業人だった。経済産業人として、冷戦構造に乗っかるのではなく、多角的な国際関係の中を生きるのが通商国家日本の国益であり生き方なのだと構想し続けた。

水上さんもまた、対立構造のどちらか一方の陣営にコミットして突き進むのは愚かなことだという考え方を持つ人だった。理想主義者のように思われるけれども、きわめて現実主義者で、だからこそ日本の立つべき位置が見えてきた。

私が石橋―水上ラインに共鳴するのは、彼らが経済産業人のリアリズムを血肉のように持っていたからだ。


寺島実郎(てらしま・じつろう)/日本総合研究所 会長。1947年生まれ。米国三井物産ワシントン事務所長、三井物産常務執行役員などを経て2016年6月から現職。多摩大学学長も務める。1994年の著書『新経済主義宣言』が石橋湛山賞受賞。近著に『ダビデの星を見つめて: 体験的ユダヤ・ネットワーク論』。他、著書多数

現代に目を移せば、ある人たちは「権威主義陣営vs.民主主義陣営」の時代だと言ったり、「中国・ロシア・北朝鮮vs.アザーズ(それ以外)」の二極化時代と言ったりしている。

しかし、そうした見方では時代を見誤る。G20は空洞化し、BRICSは中国が中心になって束ねていけるような状況ではない。冷戦の時代認識を引っ張って、日本がNATOに加盟すると言ってみたり、中国を念頭に「戦う覚悟」と言ってみたり、そのような道を歩んではならないことだけははっきりしている。極構造では捉えられない、無極化を通り越して全員参加型秩序の時代に、日本はどう生きていくのか。

第1世界大戦の後、変わっていく世界秩序に石橋は必死に食らいついた。「一切を棄つるの覚悟」や「大日本主義の幻想」は、そうした石橋のもがきの中から生まれた論考だ。21世紀の残りの77年、問われているテーマは石橋が格闘した時代と非常によく似てきた。勇ましいことを言うのではなく、日本の選択肢をいかにやわらかく構想できるか。我々に問われているのはそこだ。

東洋経済がどのような言論を展開していくのかも、日本の進路を左右するカギになるはずだ。

(聞き手:野中 大樹)


(野中 大樹 : 東洋経済 記者)