(左)美智子さん&忠義さん夫妻(右)孝晴さん&喜久子さん夫妻。家族8人で囲んだテーンテーブルも子が巣立ち、また4人で並ぶ

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50平方mほどのフロアに十数台のミシンが置かれ、Tシャツやブラウスの形状にカットされた布地が、そこかしこに積み上げられている。

「こうしてね、指で布をしっかりと押さえながら縫っていくの。そうするとヨレないから」

工業用ミシンの前に座り記者に縫い方を説明してくれているのは、深見孝晴さん(80)だ。

孝晴さんがフットペダルを踏み込むと、軋むようなモーター音が響く。縫っているのは真っ白いトレーナーの襟元部分だ。カーブしているため、指で布を折り曲げながら、もう一枚の布地を巧みに縫い合わせていく。

一方、孝晴さんと背中合わせに座り、ブラウスの裾かがりを黙々とこなすのは深見忠義さん(80)。忠義さんと孝晴さん、この2人の容姿は瓜二つといっていいほどそっくりである。忠義さんの横で同じ作業をこなす妻の美智子さん(74)はこう話す。

「今の時季は、薄手のワンピースやTシャツとか夏物ばっかり。半年先にデパートに並ぶから、いつも逆の季節のものを縫っているの」

ここは名古屋市北区にある「ソーイング・ブラザー」。

一卵性双生児である忠義さんと孝晴さんが54年前、2人で設立した縫製工場だ。

間口が狭く奥行きが深い、うなぎの寝床のような50坪ほどの敷地に建物が立つ。道路に面した1階部分が工場で、この奥と2階が家族の居住空間となっている。

そしていま住居のほうからスタスタと現れた女性は、忠義さんの隣で作業をする美智子さんと、まさに生き写し。それもそのはず、孝晴さんの妻・喜久子さん(74)と美智子さんも一卵性の双子なのだ。前髪をカチッとそろえたショートカットの長さまで同じうえに、着ているブラウスまでおそろいときているから、ますます見分けがつかない。記者の視線がおそろいの洋服に注がれていることに気づき喜久子さんが言う。

「私たちは、朝、台所で会うと『今日も、また服がかぶっちゃったね』って。偶然、おそろいになっちゃうのよ」

工場での仕事は夫婦単位で動く。

「喜久ちゃんには私が教えたので彼女も特殊ミシンを扱う。あと経理もやってくれているの」と孝晴さんが説明すると、喜久子さんはそばに座って、夫と同じ作業に取り掛かる。

「コロナで一時期仕事が減っていたけど最近はまた戻ってきて、土日も関係なく大忙しですよ」と忠義さんがつぶやく。

ここは双子の兄弟と姉妹同士で結婚して以来、今年で50年、夫婦2組が同居生活を送りながら営む工場だ。この双子夫婦の50年とは。

■4人でデートを重ねてプロポーズ。実は組み合わせは決まっていなかった

深見忠義さんと孝晴さんは1942年(昭和17年)、愛知県豊田市足助町に8人きょうだいの次男と三男として誕生。太平洋戦争の最中とあって、「兵隊が2人も増えた」と、役場から記念品が贈られた。

「戦禍といっても覚えていることといえば、家族で避難していた薄暗い防空壕に赤い電気が灯っていたことくらい」と忠義さんは言う。

材木業を営む深見家では、多忙な両親に代わって、双子の兄弟がその下に次々と生まれた妹たちを背負い、あやす役目を担った。兄弟は当時からそっくりだったそうで、忠義さんが述懐する。

「お祖父さんが風呂に入れてくれていたんだけれど、よく一方を2回入れてしまって(笑)。2度も入れられたほうは泣くものだから、終わったらハチマキをさせて目印をつけていたくらい、家族でも見分けられなかったらしいです」

姿形だけでなく、行動も思考も似ていた2人は、同じ学校へ通い、クラスも一緒だった。

「2人でべったりだったから、ほかの子が寄り付かん状態だった」と孝晴さんは言う。ともに学校を卒業したころには「生涯を共に暮らそう」と決意していた。

そのために、兄弟は周到なプランを練っていた。まず、2人で生活していくうえで、大きな軸となる「妻」を迎えるなら、自分たちの願いを理解できる「双子姉妹がいい」ということ。

そこで兄弟が頼ったのはテレビの力。当時人気だったある番組の「嫁さん探しコーナー」に出演し、双子の姉妹を募集したが、応募してきてくれた姉妹はたったの1組だけ。テレビの効果は諦め、今度は人を介して双子姉妹を紹介してもらったが、結局、成婚には至らなかったと忠義さんは当時を振り返る。

「気の合う双子姉妹でも、結婚生活は別々にしたい、という理由で断られて。同居という条件がネックだったようです」

孝晴さんがこう続ける。

「われわれは家まで用意してあったので、後に引けなかったのです」

なかなか伴侶を決めない兄弟を、父親は「いつまで探してるんか! そんな姉妹おるわけない!」と叱りつけた。「もう少し待ってくれ」となだめ、8回目のお見合いでついに出会ったのが、美智子さんと喜久子さん姉妹だった。

美智子さんと喜久子さんは、’48年(昭和23年)岐阜県揖斐郡に誕生。上に姉、下に妹の4人姉妹の次女・三女である。

戦後の復興期に生まれた姉妹は、学齢期になるとスポーツ万能姉妹としてスケートやバスケットボールに励んだ。同じ学び舎へ通い、地元の高校を卒業後の就職先も、そろってユニチカに入社した。ここでも瓜二つの双子姉妹は周囲を驚かせることがたびたびあったと喜久子さんは言う。

「『あれ? さっきは座って仕事をしていたのに、どうやって裏に回ってきたの? フェンスを乗り越えた?』って、業者さんが首をかしげていたりしましたね」

当時は就職するや、結婚を急かされる時代だ。美智子さんは勧められるまま日曜日になるとお見合いに勤しんでいた。

「30回はお見合いをして、決まりかけた縁談もありました。でも本心は、喜久ちゃんと離れたくなくて、『嫁ぐなら双子の兄弟がいいな』って友達に話していたこともあったんです」

所詮は夢物語と諦めていたが、「双子の兄弟が嫁探しをしている」と紹介話が舞い込み、’72年2月、名古屋駅で初対面を果たした。

この日のことを美智子さんが懐かしそうに振り返る。

「会う前から母親は乗り気で、この日も私たちに付き添っていました。出会いの日、案内されてこの家を見た途端、母は『ここにお嫁に行くのよ!』と。話が進みました」

見学した家の内部は2組の夫婦が暮らせるようにと、部屋も台所もすべて真新しく整い、さらに縫製工場という職場付き。兄弟が借り入れた事業資金はこのときにはすでに完済してあったのも、親からしてみると好印象であった。忠義さんと孝晴さんは開業以来、いつか来るお嫁さんに借金を背負わせるわけにはいかないと、4年間で7日しか仕事を休まず返済に励んだのだ。美智子さんは続けて、

「働きすぎで主人たちは貧相なくらいやせ細っていて、体重は50kgもなかったね。4回目のデートのとき『僕ら、痩せてはいますが、一生懸命働いているんで、結婚してください』って」

レストランで食事中、忠義さんが代表してプロポーズをしてくれた。兄弟は姉妹に一目惚れ。姉妹も「この人たちなら」と気に入っていたものの、実はこのとき、ペアはまだ決まっていなかった。そこで、美智子さんが「組み合わせはどうなるんでしょう?」と切り出すと、忠義さんはこう答えた。

「上は上、下は下がややこしくなくていいのでは」ときっぱり。

一拍置いて、姉妹はうなずいた。

「よろしくお願いします!」

約2カ月後の4月18日、2組の夫婦は一緒に結婚式を挙げた。

新婚旅行も4人で1台の車に同乗し紀州へ。双子同士の結婚はすでに新聞紙上で報じられていたため、宿の玄関前には従業員が並んでお出迎え。食事も一部屋に4人分が並べられていた。このときばかりは美智子さんは、宿の女将にこう頼んだという。

「『これから、私たちはいつも4人一緒なので、今夜の食事くらいは別々に』とお願いし、初めて夫婦2人ずつ、部屋で食事をしました」

そして、その晩は2人ずつ別々の部屋で夜を過ごし、その言葉どおりの結婚生活が始まった。

■世間では夫婦2人だからぶつかり合う。われわれは4人だから話し合いになって喧嘩にならない

「私たちの子はそれぞれ2人ずつ。4人きょうだいのように育ったんです」

いまは全員家庭を持ち、自立している。子育て真っ最中のころの家族8人の記念写真を美智子さんと喜久子さんは目を細めて眺める。

’73年孝晴さん・喜久子さん夫妻に長男和孝さん(49)誕生。

忠義さん・美智子さん夫妻には’75年に長男忠司さん(47)、’77年に次男英司さん(45)、そして’78年に孝晴さん・喜久子さんに長女の美木さん(44)が誕生している。

「結婚当初、私とみっちゃんがいっぺんにお産をすると家の中が大変になってしまうから、ほどよく間隔を空けて出産をしようねって話し合ったの。結局、いろいろあって上から下まで5歳離れています」と喜久子さんが説明する。そして、お産をした病院でまたも、そっくりならではのエピソードが。

「2人とも同じ病院で産んだものだから、病院の看護師さんが、『え? 昨年産んだばかりで、もうできたの? 何人目?』と。『まだ2人目です。私は双子で、多分姉と間違えているんです』と答えると、『うそ。どう見ても同じ人よ』と信じてもらえなかった」

3男1女は12畳の部屋で4人一緒にスクスクと育った。大家族は当初長方形の食卓を囲んでいたが成長するに従い座り切れず、中華料理店にあるような回転テーブル付き円卓を特注し、にぎやかに暮らした。

「普通の夫婦は困難があれば夫婦2人で立ち向かうけど、わが家は親が4人もいて、知恵も倍出し合える。うれしい報せも2倍届きます」

と、忠義さん。

忠司さんは隣町で、孝晴さん・喜久子さんの長男和孝さんと、隣り合わせに家を建てて暮らしている。孫は全部で7人、まもなく8人目が生まれる。こうしてにぎやかに増えていった深見家だが、最近、美智子さんは、長男からこんな質問があったと語る。

「お父さんとお母さんは、2組ともどうして夫婦喧嘩がないの? よその家ではよくやっているのに」

と心底不思議そうに尋ねられたという。喜久子さんが引き受ける。

「世間では夫婦2人だからぶつかり合うのね。われわれは4人だから、なんでも話し合いなの。1人が『こうしたい』と主張しても、ほかの3人が『それはできない』と反対すると、1人の意見は通らないとわかっているから引き下がる。それで納得して終わりなの」

50年たっても笑いが絶えることのない深見さんご一家の、親密さの“秘訣”かもしれない――。

【後編】「プロポーズのとき、ペアは決まっていなかった」奇跡のW双子夫婦が初告白へ続く