将軍家のプライベートサロン!江戸時代の大奥の構造はどのようになっていたの?

写真拡大 (全3枚)

大奥は江戸城の中で将軍正室をはじめ側室やその子供たち、その他500〜1000人以上の奥女中が暮らした将軍家のプライベートサロンでした。今回はその構造についてご紹介します。

こちらの記事も合わせてどうぞ

西丸大奥向総絵図 国立国会図書館蔵

大奥に入るには「御鈴廊下」

基本男子禁制の大奥は中奥から完全に仕切られ、唯一それをつなぐのが御鈴廊下でした。将軍が大奥に入る時に鈴が鳴りわたり、頑丈な鍵が開けられたのです。

長い御鈴廊下の左右に見目麗しい奥女中がずらりと並べられ、将軍がその中央を品定めしながらゆっくりと進んでゆく……。

大奥といえばこの御鈴廊下のシーンを思い浮かべる人も多いでしょう。

御広敷向(おひろしきむき)

大奥は男子禁制とはいえ、その管理や運営には少なからず男手が必要でした。そこで、男性の役人が詰めていたのが御広敷向です。

役人は御広敷役人と呼ばれ、大奥の管理事務局のような役割を担っていました。男性がいるので、奥女中が寝起きする長局との間は「七ツ口(ななつぐち)」で仕切られていました。

七つ口は外部と大奥を繋ぐ玄関でした。用事で七つ口にやってきた奥女中はどんな事務的な会話でも、男性を見ると自然とうっとりしてしまったのでしょう、「七つ口 男をおいしそうに見る」という川柳が残っています。

御殿向(ごてんむき)

御殿向は将軍の家族が暮らす場所です。家族というのはつまり、本丸ならば御台所、西丸ならば大御台所もしくは将軍世子夫人、その子供たちの事です。

寝所もあり、将軍が夜に御台所に会う時には、そこで会うことができました。詰所には御台所や将軍の身の回りの世話をする大奥女中が常時500人ほども詰めていました。

歴代将軍の位牌がある御仏間には毎朝将軍が訪れて、御台所と一緒に手を合わせました。

長局向(ながつぼねむき)

奥女中たちが寝起きしていたのが長局向です。2階建ての造りになっており、長い1棟の建物を女子寮のように細かく部屋に仕切っている長屋のようなかたちでした。

一之側から四之側まであり、奥女中の格の高い順に並んでいました。ほとんどが数人で1部屋のシェアルームでしたが、上臈御年寄や御年寄などのトップの奥女中が暮らした一之側は1人1部屋与えられ、広さもかなり広かったようです。

二之側、三之側がその他の御目見以上の女中、四之側がお目見え以下の女中たちと分かれていました。