それって届くの?武将・直江兼続が閻魔大王にメッセージ。その理由が怖すぎる…

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戦国大名・上杉氏二代(謙信、景勝)に仕え、文武両道の手腕を発揮した直江山城守兼続(なおえ やましろのかみ かねつぐ)。

軍神・愛宕大権現より「愛」の一文字を前立にデザインした兜がトレードマーク、大河ドラマ「天地人」でも大活躍した人気武将の一人です。

今回は、そんな兼続のお茶目?なエピソードについて紹介したいと思います。

斬り殺された下人と、遺族の怒り

時は戦国末期の慶長二(1597)年。上杉家中の三宝寺勝蔵(さんぽうじ しょうぞう)という者が、五助(※諸説あり)という下人の不始末を咎め、斬り殺す事件がありました。

江戸時代であれば、武士は「斬り捨て御免」とうそぶき、庶民は泣き寝入りしていたかも知れませんが、戦国乱世を生き延びた民衆に「お上意識」など希薄です。

当然の如く、下人の遺族たちは敢然と家老である兼続に訴え出ました。

「ふざけるな!いくら不始末だからって、殺すほどではなかった筈だ!」

「きちんと事実関係を調査し、然るべき対応をとるべきだ!」

その声を受けた兼続は勝蔵に対して取り調べを実施。事情を聴くと、確かに不始末ではあっても、斬り殺すほどの重罪ではなく、ついカッとなって斬(や)ってしまった、との事でした。

死んだ者を連れ戻せるか?

兼続は本件を「上杉家の不始末」として遺族に謝罪。お詫びとして、勝蔵に銀二十枚の支払いを命じました。しかし、遺族は納得してくれません。

「断わる!ゼニなんかいくらつんでも、死んだ者は戻らない!ウチの五助を返して寄越せ!」

そりゃあ確かにそうなんですが、と言って死んだ者はどうあっても返せないから、せめて慰謝料だけでも……などなど、誠心誠意説得を試みた兼続ですが、どうしても聞き入れてくれません。

ほとほと困った兼続が悩みに悩み抜いた末、遺族たちに提案しました。

「……相判った。どうにか五助を取り返せるよう、閻魔大王にお願いしてみよう。しかし、五助を連れ戻すには迎えを出す必要があろうから、そなたらを遣わそう」

兼続はそう言うなり、遺族三人の首を刎ねました。

拝啓・閻魔大王さま

【意訳】
「一筆啓上いたします。三宝寺勝蔵の家来が不慮の死を遂げたことを遺族が悲しみ、返して欲しいとの事なので、この三人を迎えに遣わします。どうか返してやってくださるようお願い申し上げます。
慶長二年二月七日 直江山城守兼続(判)
閻魔大王さま」

『煙霞綺談』より。兼続が閻魔大王に当てたメッセージ原文(2〜8行目)。

兼続は河原にこのような高札を立て、遺族らの首を並べたそうです。

体(てい)のよい粛清にも見えますが、あるいは大真面目に閻魔さまへ手紙を出し、遺族たちが五助を連れて四人ともよみがえることを信じていたともわかりません。

結局、この四人が現世に還ってくることはなかったようですが、ところで三宝寺勝蔵には罰金以外のお咎めがあったのかどうか、少し気になるところです。

まとめ「アイツならやりかねない」

直江兼続「これにて、一件落着(キリッ)」

このエピソードは江戸時代後期の随筆集『煙霞綺談(えんかきだん。集話:西村白烏)』巻之四に収録された「閻魔王書状」という物語。

歴史的事実としてはいささか(多分に)根拠が怪しいものの、こうした物語や噂話というものは

「アイツならやりかねない、やってのけてもおかしくない」

というある種のカリスマ?が生み出すもので、たとえ事実ではなくても、「あのいつもバカ真面目な直江山城守なら、そんな事があったかも知れない」という思いが、何かのきっかけに尾鰭をつけた可能性も十分にあるでしょう。

余談ながら、今回登場した三宝寺勝蔵という武士は実在した証拠がなく、架空の人物と考えられますが、似たような名前の山本寺松三景長(さんぽんじ しょうぞう かげなが。生年不詳〜天正十1582年6月3日)という武将がおり、後世の人が音から漢字を想像≒創作した可能性があります。

更に、昔はコピー機もなければコピー&ペーストも出来ないため、当然ながら書物は人間の手で書き写すのですが、「三宝寺」という漢字を間違えて「三室寺(みむろじ)」としたり、「勝蔵」も「庄蔵」となったり、表記のゆれも生じています。

いつの時代も、物語は人から人へ伝えられ、その中でウソや誇張や勘違いも入り混じり、やがて「伝説」へと成長します。

創作された物語にも、それを産み出し、伝えた人々の想いがあり、それも含めて味わってこそ、歴史にふれる喜びはより深まろうというものです。