あと1カ月少しで、入園・入学シーズンです(写真:iStock/hanapon1002)

春はもうすぐ。入園・入学を控えた子を持つ読者の方も多いだろう。では、わが子の通う幼稚園や小中学校の、教育内容の基準が今春から段階的に変わっていくことをご存じだろうか。幼稚園の「教育要領」と小中学校の「学習指導要領」が2017年3月に改訂され、2018年度から移行が始まるのだ(全面実施は小学校で2020年度、中学校で同2021年度から。その間は移行期間とされ教科ごと、学校ごとの対応が求められる)。

政府は今回の新要領で、「小学校の外国語教育の教科化」のほか、全体として「主体的・対話的で深い学び(アクティブ・ラーニング)」を重視した学びの展開を目指している。知識偏重の教育から思考力や判断力、表現力を育む教育へのシフトである。

新要領に改訂された背景

なぜ今、改訂が必要だったのだろうか。文部科学省は改訂の理由について、情報化やグローバル化によって社会が人間の予測を超えて変化する中で、「新しい時代に必要となる資質・能力を踏まえた教科・科目等の新設や目標・内容の見直し」をするため、と説明している。

確かに、子どもたちを待ち受けるのは今とは異なる「新しい時代」だ。それはいったいどんなものなのか、読み解くキーワードが3つある。「指数関数的発展」「AIによる仕事の代替」「人生のマルチステージ化」だ。

「指数関数的発展」は「ある時点から爆発的に発展すること」を意味し、主にテクノロジーの進化について表現する際に用いられる。現在でもIT技術は日進月歩だが、ある時点でAIが自己学習能力を持ち、人工知能の自己再生産ができるようになると、AI技術が「指数関数的発展」を遂げ、これまでの世界とは非連続な世界に突入すると言われる。この時点がいわゆる「シンギュラリティ」で、2045年頃到達するという予測もある。

そんな世界の中で、子どもたちに「今の常識」を何の配慮もなく植え付けることは危険だろう。別の「新しい常識」があらわれて世界を席巻することもまたないと思われる。もはや「常識は更新され続ける」ということを伝えるほかないのだ。

この指数関数的発展によって起こることの1つが、「AIによる仕事の代替」だ。2014年、オックスフォード大学のマイケル・A・オズボーン氏は自身の論文「雇用の未来」の中でAIやロボット技術の進化によって「今後10~20年で、アメリカのすべての雇用者の約47%の仕事が自動化されるリスクが高い」と発表している。日本でも2015年、野村総合研究所が「10〜20年後に、日本の労働人口の約49%が就いている職業において、それらに代替することが可能との推計結果が得られている」と発表した。


また、ダボス会議(世界経済フォーラム)創始者のクラウス・シュワブは『第四次産業革命――ダボス会議が予測する未来』(2016年、日本経済新聞出版社)において、AI、ロボットの活用が進む第四次産業革命を経て工場の無人化が進み、製造業が雇用の受け皿としての機能を失うことを懸念している。そして、それによって新しい『価値』を生み出せる人材に富が集中し格差が拡大することを予言しているのだ。

教員や学芸員、美容師といった創造性や協調性が必要な業務や非定型な業務など、AIによる代替可能性が低いとされている仕事はある。また、新たに生まれてくる仕事ももちろんあるだろう。ただ、現代の子どもはこうした前提で将来を描くことが求められているのだ。

「教育→仕事→引退」モデルの崩壊

最後に、「人生のマルチステージ化」がある。英ロンドン・ビジネススクール教授のリンダ・グラットン氏らが著した『LIFE SHIFT』(東洋経済新報社)が2016年に日本で刊行された。

その中で、いまの50歳未満の日本人が100年以上生きる時代となり、「教育→仕事→引退」の順に同世代が一斉行進する「3ステージの人生」から、生涯で2つ、3つのキャリアを持つ「マルチステージの人生」が一般的になる、とされている。終身雇用が多くの会社にとっていまだに一般的である日本にとって、この「人生のマルチステージ化」は大きな衝撃とともに広がっていった。

政府が「人づくり革命」を掲げてリカレント教育(生涯にわたって教育と労働や余暇など交互に行う教育システム)を推進し、大人がキャリアプランの再考を迫られる中で、より注目されるのはこうした「未来」をど真ん中で生きていく子どもたちに対する教育だ。

以上の社会予測を踏まえ、今の日本の学校教育を見てみるとどうだろうか。より速く問題を解くこと、より多く言葉を暗記することが評価されるような受験競争、既存の価値観や正解を疑うことなく、その期待に答えることが最善とされてきたこれまでの教育は通用しなくなるだろう。今回の「学習指導要領」の改訂は、そうした危機感の表れといえる。

教育改革は10年、30年、あるいはさらに長い期間の計になるが、そのスタート地点に今いるのだ。しかし、彼らにどんな教育を届けていけばよいのか、誰も明確な応えを持ち合わせていないのが現状だ。

私たち現代の大人はもちろん、時代を遡ったとしても誰ひとりとして、こんな先行きの見えない変化の激しい時代を生きたことがない。ではどうすればよいのか。いったいどんな能力が新しい時代に必要なのだろうか。

前述の『LIFE SHIFT』の著者リンダ・グラットンは、「マルチステージ化する人生の恩恵を最大化するためには、上手に移行を重ねることが避けて通れない。柔軟性を持ち、新しい知識を獲得し、新しい思考様式を模索し、新しい視点で世界を見て、力の所在の変化に対応し、ときには古い友人を手放して新しい人的ネットワークを築く必要がある」と説いている。

子どもか大人かにかかわらず、これからの時代を生き抜くすべての人に必要なのは「変わり続けられること」なのだろう。ただ、残念ながら「変わり続けられる人材」は大人でさえこの世にそう多くはいないということが、すでに実証されている。

大人の知性には3段階ある

ハーバード大学教育学大学院の教授、ロバート・キーガン博士が提唱した「成人発達理論」がある。ロバート・キーガン博士は、人間の知性の発達は肉体的発達と同様に、20歳代でとまると考えられていたそれまでの通説を覆し、成人以降も心理面で成長し続けることが可能であること、そしてそれが現代社会においては不可欠であると唱えた。

キーガン博士の著書『なぜ人と組織は変われないのか』(2013年、英治出版)では、脳科学の分野においても人間の脳には生涯を通じて適応を続ける能力が備わっていると考えられていることが記されている。さらに、人間の知性はいくつかの段階を経て高まり、その段階ごとに世界を認識する枠組みが変容していくと説いた。

キーガン博士曰く、大人の知性には3段階あるという。第1段階は「環境適応型知性」、第2段階が「自己主導型知性」、第3段階が「自己変容型知性」だ。知性という言葉は多くの人にとって馴染みが薄いかもしれない。そうした場合は「スタンス」と言い換えても、その意図から大きく外れないだろう。

「環境適応型知性」は、周囲からの期待を重視し、自分の意志ではなく集団の合意や集団のリーダーの意志を重んじて行動する段階を指す。重要な人物や組織の意向、居心地の良い環境に自分を合わせることを、自分自身を保つための手段と捉えている。そのため、情報に敏感という特徴がある。ご自身が所属される組織の同僚や先輩後輩を見渡してみたとき、この段階に属していると思われる人も多いのではないだろうか。

次の段階とされる「自己主導型知性」は自分なりの価値基準、判断基準を持ち、自分自身のイデオロギーや行動規範に従い、ゴールや目標を決め、戦略をもって自律的に行動する段階を指す。日本社会のキャリア観が変化し、転職や多様なキャリアの歩み方が徐々に増えている。そんな時代背景の中で一度入った会社を辞め、自分の信念の赴くままに、企業規模や人気などを度外視して転職したり起業したり、あるいは社会貢献分野にいって、自分のキャリアを歩んでいるような方が周りにいたら、もしかしたらその方はこの段階に属しているのかもしれない。

そして最終段階とされるのが「自己変容型知性」だ。これが最も成熟した知性とされる。前段階同様、自分のイデオロギーや価値基準を持ちながら、それを客観的に見てその限界を検討し受け入れることができるという点が前段階と大きく異なる点である。あらゆるシステムや秩序、思想は不完全であると理解し、その限界を知り、矛盾や相反する考え方を受け入れ、対立を統合しながら1つの解を生み出していくのが最終段階なのである。

この「自己変容型知性」が、まさに「変わり続けられること」を体現した知性と言える。自分の価値観に固執せず、社会状況や「今」に目を向ける中で自己を変容していける段階である。

今日の社会では、情報社会化の中で知的労働が求められる比重が高まり、変化のスピードは上がり、イノベーションが求められ、経営者やフリーランスのみならず組織で働く人材にも第2段階の知性・自己主導型知性に達することが求められている。そして、リーダー層の人材は今後、最終段階の自己変容型知性への移行が求められていくとロバート・キーガン博士は述べている。

しかし、冒頭で述べたこれからの未来の社会を前提にすれば、さらに多くの人にこの自己変容型知性の段階に達することが求められるのではないだろうか。

「正解のない時代」とよく言うが、それはこれまでの「正解」に限界が来たということを意味している。AIの発展やそれに伴う雇用の変化、超長寿命化などを迎え、すさまじい変化の中で「正解」が更新され続ける新たな時代においては、リーダーのみならず個人が社会秩序、思想は不完全であると理解し、その限界を知り、矛盾や相反する考え方を受け入れ、対立を統合しながら1つの解を生み出していく必要があるのだ。

ただ、現状では第2段階の「自己主導型知性」に到達している人でさえ少数派という。キーガン氏は著書の中で、米国の大卒中流層の専門職を中心にした被験者に対して行われた数百人規模の調査で、6割近くが自己主導型知性の段階にも達していないと記している。

日本に目を向けると…

では、日本人はどうだろうか。新卒一括採用が一般的で、入社する社員の多くが総合職として雇用されてきた日本の企業においては、新入社員は入社後どんな職種につくか定められないことがほとんどだ。入社後も企業からの辞令があればそれに従う。例えば営業職として入社した社員が総務や人事といった職種になることは日常茶飯事であろう。

つまり、新たな役割を命じられたらそれに従い、その役割を担いながら必要なスキルや働き方を身に着けていく。こう見ると、日本のサラリーマンは職種や自身に求められる役割という観点では自己を変容しながら社会人人生を生き抜いてきたとも言える。

しかし一方で、1つの会社の中で生き続けることを常としてきた日本の多くの社会人には、会社の目標が部署の目標やグループの目標としておりてきて、その目標に照らして合理的なのはどちらなのかという判断をすることはあっても、自分なりの価値基準、判断基準が必要となる場面や、自分自身のイデオロギーを自身に問うて判断をするといったことはほとんどなかったのではないだろうか。むしろそういったものを持つことを禁じられてきた、無価値なものとされてきたと言えるかもしれない。

さらに言えば、相容れない価値を目の前にして、決められた基準がない中で自分の価値観と他者の価値観を統合しながら新しい決断や判断を下すという場面や、それまでの価値観を捨て、新たな価値観を取り入れて前に進むような場面は、本当に本当に稀有だったのではないだろうか。その意味で、おそらく日本における「最終段階の知性」の持ち主は米国よりも圧倒的に少ないことが予測できる。

これからの未来を考えたとき、未来と言ってもそう遠くない未来、10年やそこら先の未来を生きる人材に求められるのは「変わり続けられること」であるのは明らかだ。政府は安易な働き方改革やピントのズレた金融政策にリソースを投下しているが、日本が新しい時代により豊かな社会を実現するためには、一人ひとりの「知性」の発達がまずもって必要となる。この後押しこそ国がすべきことなのではないだろうか。