今日で80年。改めて振り返る二・二六事件とは何だったのか

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1936(昭和11)年2月26日に陸軍の青年将校らが決起して下士官・兵を率い、首相官邸や警視庁をはじめ政府首脳や重臣の官・私邸を襲撃した二・二六事件の勃発からきょうでちょうど80年が経った。


この事件では、首相官邸で岡田啓介首相と誤認された義弟の松尾伝蔵(首相秘書・海軍大佐)が射殺されたほか、大蔵大臣の高橋是清、内大臣の斎藤実(いずれも首相経験者)、陸軍の教育総監・渡辺錠太郎が殺害され、宮内省の侍従長・鈴木貫太郎(太平洋戦争末期の首相)が重傷を負った。また別働隊により神奈川県湯河原に滞在中だった前内大臣の牧野伸顕も襲われたが、難を逃れる。襲撃後、決起部隊は日本の政治・軍事の中枢である永田町および三宅坂一帯を占拠、この異常事態を受け、翌27日には東京市に戒厳令が公布される。

昭和天皇は事件勃発を知らされたときより、信頼していた重臣らが殺されたことに激怒し、決起部隊の鎮圧を求めている。しかし陸軍は、軍内部で決起集団に同情的な空気が強かったこともあり、なかなか鎮圧に動こうとしなかった。勅命(天皇の命令)を受けて戒厳司令官より反乱鎮定の命令が発せられたのは、事件3日目の28日である。翌日には決起部隊が包囲され、同時にラジオ放送やアドバルーンなどを通じて下士官・兵に帰順が呼びかけられた。これにより事件はようやく収束を見る。青年将校の大半はその後、事件に連座した西田税(みつぎ)、黒幕と見なされた北一輝といった国家主義者らとともに処刑された。

キャンセルできなかった700個の大福餅


二・二六事件で青年将校の標的となったなかには、元首相の西園寺公望もいた。このとき満86歳の西園寺は、国の重要政策の決定や首相選定にあたる元老の立場にあった。

決起の中心メンバーらは、静岡県興津にあった西園寺邸の襲撃を2月18日に決定、愛知県の豊橋陸軍教導学校の将校に実行を依頼する。しかし豊橋の将校らが計画を詰めるなかで、兵力の使用に強く反対する者があり、けっきょく事件前日の25日、襲撃の中止が決まった。このときすでに手配していたガソリンを返却、違約金をとられた。しかし、同じく注文していた5個1組・計140包の大福餅はキャンセルしようとしたものの、断られてしまう(北博昭『二・二六事件 全検証』朝日選書)。

菓子屋からすれば、700個もの大福をつくるためおそらく大量の材料も人手もすでに手配しており、それをいきなりキャンセルされてはかなわないということだったのだろう。とはいえ、軍人相手によくつっぱねたものだ。三谷幸喜あたりの脚本で、この菓子屋の視点から二・二六事件をドラマ化したら面白いかもしれない。

一杯の親子丼を60人で食べる――ある落語家の回想


二・二六事件における食べ物がらみの話としては、こんなエピソードもある。このとき決起部隊として警視庁を占拠した麻布の歩兵第三連隊には、入営まもない小林盛夫という21歳の二等兵がいた。小林によれば、事件2日目の夕方ぐらいまでは、部隊に食糧が調達されていたが、以後ぱったりと途絶えてしまう。兵士らが空腹を抱えていると、そこへひとりの下士官がどこから調達したのか、親子丼を一杯だけ持ってきた。そのたったひとつの親子丼を、「親子丼を食うと思うな、精神を食え」と言われつつ60人ばかりで分けて食したものの、兵士たちはますます意気消沈してしまう。

これでは困ると、分隊長から士気高揚のため、小林二等兵はいきなり落語をやれと命じられる。彼が落語家の前座見習い(高座名は柳家栗之助)だったからだ。が、「子ほめ」という噺を演じたものの、あとにも先にもこんなにウケなかったことはないというほど誰も笑わなかったという(文春ムック『太平洋戦争の肉声(4)テロと陰謀の昭和史』)。この小林二等兵こそ後年、落語界初の人間国宝となる五代目柳家小さんである。

小さんを含め下士兵の多くは、決起の目的が何なのかわからないまま青年将校のもとに集められた。事件後、彼らは満州(現在の中国東北部)に送られ、反乱軍の汚名をそそぐという目的で徹底的にしごかれる。小さんは半年で帰国することができたが、仲間の兵士には残留して翌年勃発した日中戦争で死んだ者も少なくなかったという。

青年将校はなぜ高橋蔵相を殺したか


では、青年将校の目的とは何だったのか。その「蹶起趣意書」は、君側の奸臣(天皇側近で悪心を抱く重臣)・軍賊の排除を謳うだけで、排除したのちの目標は明確には示されていなかった。これというのも、青年将校のなかにも、斬奸(ざんかん。悪人を切り殺すこと)のみに目的を置く「天皇主義」と、上部工作を通じた政治的変革をめざす「改造主義」と二派が存在したからだ(筒井清忠『二・二六事件とその時代――昭和期日本の構造』ちくま学芸文庫、『二・二六事件と青年将校』吉川弘文館)。反乱鎮定の勅命が下ったあとも、前者の天皇主義派の将校がおとなしく従ったのに対し、改造主義派には、天皇を激しく非難する者もあった。

この青年将校における二派の存在にしてもそうだが、関連史料から精緻な分析を重ねることであきらかとなった事実も少なくない。近年にいたっても、新出の裁判調書や供述をもとに、従来の通説に対し再考を促す指摘が次々となされている。

たとえば、青年将校決起の理由としては、農村の窮乏への憂慮がよくあげられる。このことは事件直後から流布され、国民の同情を買うことにもつながった。

蔵相・高橋是清の経済政策により日本は世界恐慌からいち早く脱却したとはいえ、農村の景気回復は遅れていた。高橋は、中央依存や財政的な倫理欠如への懸念から農村救済のための公共事業には否定的で、農村の景気回復はむしろ自力更生に待つとしたためだ。おかげで彼は青年将校の怒りを買うことになる。

ただし、青年将校の訴えた「農村の窮状」は、高橋がインフレ回避のため反対した軍備増強の実現とセットにして考えねばならないとの見方もある(須崎愼一『二・二六事件 青年将校の意識と心理』吉川弘文館)。なお、農村の景気回復が遅れた要因には、1933年の空前の豊作による米価の低落、翌年の東北地方を中心に起こった冷害による凶作もあった。それでも高橋の布いた農村経済更生政策は1935年以降、やっと実を結び始め、農村不況はほぼ解消していく(中村隆英『昭和史【合本版】』東洋経済新報社)。高橋の惨劇はそのさなかに起こった。

二・二六事件は戦争への扉を開いたのか


二・二六事件をきっかけに軍部は政治への影響力を強めていく。ここから日本は一気に戦争に突き進んでいったとは、これまたよく言われるところだ。ただし事態はそう単純ではないと考える研究者は多い(たとえば古川隆久「世相から見た二・二六事件」、北博昭「「戦争への道」を二・二六事件で説明するなかれ」、いずれも『二・二六事件とは何だったのか――同時代の視点と現代からの視点』藤原書店所収)。

たしかに事件後に発足した広田弘毅内閣では、軍部大臣現役武官制をはじめ、軍部の政治介入の手段となりうる制度変更が行なわれた。事実、陸軍はこれを悪用し、広田の後任に選ばれた宇垣一成の組閣の際に大臣を出さず、政権発足を阻んでいる。しかし、この結果生まれた林銑十郎内閣は、1937年5月に議会勢力との対立に敗れ、発足からわずか4カ月で退陣している。


言論の自由も制限はあったとはいえ、まだかなりのレベルで残されていた。二・二六事件後初めて開かれた1936年5月の国会で、斎藤隆夫や尾崎行雄は陸軍を厳しく批判する演説を行なった。またジャーナリストの馬場恒吾は、二・二六事件の際の一般人民の沈着さと冷静さを讃え、人々がいかなる事態が起ころうとも、軍部にも政党にも冷ややかなまなざしを向け、あくまで実務的な政治を望んでいることを読み取っている(御厨貴『馬場恒吾の面目――危機の時代のリベラリスト』中公文庫)。

あるいは、1931年の満州事変勃発、さらに33年の国際連盟脱退をもって日本が国際社会から孤立したということもよく言われる。しかし、満州事変時に年間2万人にまで落ちこんだ来日観光客が、1935年には4万人まで倍増していた事実を見ると、どうも孤立していたとは言いがたい。ここで落とされる外貨は当時の日本の国際収支の半分に達し、外国人観光客誘致は不可欠となっていた(古川、前掲)。

国立公園の指定が始まったのもこのころで、さらには二・二六事件の5カ月後には1940年の東京でのオリンピックと万国博覧会の開催が決まる。いずれも外国人観光客誘致を大きな目的としていた。ちなみにこのころの来日観光客は国籍別に見ればアメリカ人がほとんどだったが、これを「中国人」に、国立公園を「世界遺産」や「日本遺産」に変え、そして「4年後のオリンピック」と並べれば、2016年の日本とそっくり重なる。

もちろん、当時といまをくらべれば状況はかなり違う。とはいえ、言論の自由はそれなりに認められ、アメリカはじめ諸外国との友好関係も存続していたことは間違いないし、国民のあいだで戦争と軍部を遠ざける雰囲気はまだ残されていた。しかも日本経済は好調だった。前出の宇垣一成は二・二六事件当時を振り返り、後年日記に次のようなことを書いている。

《その当時の日本の勢というものは産業も着々と興り、貿易では世界を圧倒する。(中略)この調子をもう五年か八年続けて行ったならば日本は名実共に世界第一等国になれる。(中略)だから今下手に戦などを始めてはいかぬ》(『宇垣一成日記』第3巻、みすず書房)

だが宇垣の希望に反し、日本は1937年7月の盧溝橋事件に端を発し中国と戦争を始め、泥沼に陥っていく。この過程で東京五輪と万博も中止となる。どうしてこのような道をたどってしまったのか。それを考えるためにも、二・二六事件とそれから約1年半の比較的安定していた時期を振り返ることは重要だろう。
(近藤正高)