「オジさんになったなって」…ソフトバンク・柳田悠岐の独占告白「いまのほうが、いい野球選手です」
「やっぱりプロ野球って、稼げなければ終わりなんだと思います。どこまでもシンプルでわかりやすい世界です。だから面白いんじゃないですかね」
パ・リーグ常勝軍団、ソフトバンクで7度のリーグ優勝、8度の日本一を経験した柳田悠岐(37)は今年、7年契約のラストイヤーを迎えた。31歳だった’19年オフ、総額40億円(推定)で生涯ホークスを宣言。名実ともに球団の歴史に名を刻むフランチャイズプレイヤーとなった男はいま、日々押し寄せる年波と戦っているという。
「この仕事、生活リズムがヘンじゃないですか。若いころはナイターのあとに焼き肉を食べて朝まで飲んで、昼すぎまで寝て……という生活をしても毎日全力でプレーできたんですけど、いま同じようなことをしたら、寝つけなくなっちゃうんですよ。だから、本拠地での試合だったらナイターでも夜の12時までには寝るし、ビジターでも深夜1時までにはベッドに入ります。
食事も考えるようになりました。揚げ物はほとんど食べなくなったし、お菓子も基本的にはガマンしてます。ただ、頑張った日の夕食後に、自分へのご褒美でハーゲンダッツのアイスを食べるんですよ。それは別腹っす!(笑)」
本人が「若手のころはマジでゼロだった」と振り返る練習前の準備時間は、年齢を重ねるにつれ、しだいに1時間、2時間と延びていった。
「いや〜、大変ですよ。これまでは何もしなくても勝手に動いていた身体が、だんだんと言うことをきかなくなってきてるんで。だから、瞬発力を養うトレーニングを増やしたりして、試合で身体が動くように頑張っています。チームでは周りに年下しかいないし、家に帰れば(3人の)子供はどんどん大きくなるし……ホント、オジさんになったなって思います(笑)」
それでも柳田は、試合前のフリーバッティングで誰よりも飛ばす。筆者が取材に訪れた日も、若手選手が呆気にとられるようなライナーを逆方向に突き刺していたが、当の本人は「マジで本当に大したことないです。(打球は)ゴミっす!」と笑い飛ばした。福岡でスタメンを掴み取ってから15年、1600本以上のヒットと270本以上のホームランを積み上げてきた鷹の主砲は、どこまでも謙虚だ。
「でも、ルーキーの時はプロ野球をナメていたんです。その意識を変えてくれたのが、倉野さんでした」
柳田は’11年、ドラフト2位でソフトバンクに入団した。一軍出場6試合で終えたプロ1年目のシーズンオフ、プエルトリコで行われるウィンターリーグへ2ヵ月間の武者修行に出た。そこへ帯同したのが、倉野信次一軍投手チーフコーチ兼ヘッドコーディネーター(51)だった。寝食を共にするなかで、球界を生き抜く術を授かったという。
「どうやら僕、倉野さんに『どんな野球選手になりたい?』って聞かれて、『よくわかんないですけど、数年したらレギュラーになれるんじゃないですか?』みたいなワケわからんことを言い放っていたみたいで(笑)。毎日提出していた野球ノートも、そんなノリで書いていました。
でも、そこで倉野さんが『お前、ナメてんのか? 甘えるな!』って叱ってくれて、練習の大切さとか、プロ野球選手としてどうあるべきかという考え方をたくさん教えていただいたんです。いまでもたまに、倉野さんと当時の話をするんですよ。そのたびに、『オレがそんなこと言っていたなんて……』って自分を信じられなくなります」
ギータの”引き際”
恩師の叱責で開眼した柳田は、’15年にトリプルスリーを達成してチームをリーグ優勝、日本一に導くなど栄光の20代を過ごしたが、30代はケガに泣いた。’19年には左ひざ裏の肉離れ、’22年は左肩腱板炎、’24年は右ハムストリングの負傷で離脱。昨年は右脛骨の骨挫傷で、ルーキーイヤーを除くとプロ最少の20試合出場に留まった。
”鷹の超人”と呼ばれた柳田も、「7年契約を結んでからはキツかった」と本音をコボす。
「単純に、『あとこれだけの時間、野球にすべてを捧げるのか……』と思って、やっぱり苦しかったですね。だからこそ、ケガが精神的にもダメージを与えてきたというか。それに、20代のころの感覚よりも、治りが遅いんですよ。試合に出られない時間が長くなるにつれて、『そろそろ限界なんじゃないか』って考えてしまう時間も増えていきました。
でも、いまはこうして野球ができている。だからもう、思い悩むのはやめて、僕にとってはすべてが必要な経験だったんじゃないかと捉えるようになりました。
若い時のほうが身体は動いたかもしれないけれど、練習やトレーニング、食事、睡眠の知識を取り入れて、それを実践に移せているいまの僕のほうが、いい野球選手なんじゃないかって思うんです」
『FRIDAY』2026年7月10日号より
