国産スポーツカーの傑作が生まれた、1969年の日本を考える

1969年に発売された、初代日産 フェアレディZ-L

以前、「MOBY編集部がAIに聞いてみた!30~50代のクルマ好きが気になる名車」という企画で紹介したうち、好評だった車種の記事をセルフリメイクして紹介する名車紹介リバイバル企画、今回は日産の初代フェアレディZ(S30系)です。

前回は“「スカイラインGT-Rのエンジンを断固拒否!」プリンスの血を拒んだ日産純血の元祖スポーツカー・初代フェアレディZ(S30)【推し車】”として、初代/2代目スカイラインGT-Rと同じS20エンジンを積むZ432や、初代Zが登場した背景を紹介しました。

今回は初代フェアレディZが登場した1969年、Zのようなスポーツカーは国産車の中でどのような立ち位置だったかを考えてみたいと思います。

1960年代までの「国産スポーツカー」

フェアレディZ以前の国産スポーツは、オープンモデルや2シーターで実用性に欠けるか、高価過ぎるなど一般大衆がそうそう所有できるモデルではなかった…画像はダットサン・フェアレディ1500(SP310) ©MOBY

明治時代末期に産声を上げた日本の自動車産業は、1914年(大正3年)に後の日産が大衆車向けブランドに用いた「ダットサン」の元ネタで、純国産自動車第1号と言われる「脱兎(ダット)号」を、初期の自動車メーカー「快進社」が発表したことで本格始動しました。

ただし、そこから1945年に太平洋戦争で敗戦するまでの日本では、多摩川スピードウェイなどで開催されたレースでチューニングカーが暴れまわったことはあるものの、基本的にはトラックやバスなどの商用車、VIPや軍部向けのセダンがメイン。

大型車からダットサンやオオタなどの小型大衆車でオープンスポーツ的な「ロードスター」と呼ばれる車型はあったものの、そもそも庶民にとってオート3輪のように簡便な小型実用車を除けば、まだまだ自動車自体が縁遠い存在です。

それは戦後復興期も続き、日産が「DC-3型」(1952年)に始まる一連のダットサン・スポーツを販売していたものの、DC-3は戦前型ダットサン・ロードスター車の焼き直しで、後にフェアレディとなるダットサン・スポーツ1000(1959年)以降も基本は輸出向け。

しかし、1963年に鈴鹿サーキットで「第1回日本グランプリ」が開催され、スポーツキットを組み込んだダットサン・フェアレディ1500(SP310型・1962年)が海外のスポーツカーを振り切る速さを見せつけるなど、国産スポーツも脚光を浴びます。

国産車メーカー各車とも、自社モデルにSUツインキャブなど高性能パーツを組み込んだホットモデルを追加するようになり、ホンダのSシリーズやトヨタのトヨタスポーツ800(ヨタハチ)、トヨタ2000GT/1600GT、いすゞのベレットGTなどが続々登場。

もちろんそれらは高価でしたから、一般庶民はせいぜい商用のライトバンやピックアップトラックを休日にファミリーカーとして使うのが関の山でしたが、1966年(昭和41年)にその状況は大きく変わります。

「マイカー元年」を境に動き出した、大衆向け国産スポーツ

Gノーズを装着した「240ZG」など、カッコよくても他車種のエンジン流用などでコストを抑え、比較的安価に一般大衆でも買えて高性能な国産スポーツカーは、初代フェアレディZが国産初と言ってよいだろう

1966年、ダットサン(日産)から「サニー」、トヨタから「カローラ」の初代モデルが登場、1950年代に通産省(現在の経済産業省)が提唱した、「安価で高性能な国産大衆車」の決定版とも言える2車種の登場と大ヒットは、後に「マイカー元年」と呼ばれました。

ただしその頃の国産スポーツカーと言えば、トヨタスポーツ800(1965年)やダイハツ コンパーノスパイダー(1965年)、ホンダ S800(1966年)といった800~1,000cc級を除けば高価すぎますし、2シーターでは実用性にも欠けます。

必然的に大衆向けの低価格ファミリーセダンや、それをベースにした2ドアハードトップやクーペの高性能版が「国産スポーツの主力」となっていきますが(例:ブルーバードSSSなど)、一方で「安価な本格国産スポーツ」の芽も出てきました。

大衆向けから高級セダンまでのエンジンやプラットフォームを流用する形で、コストを抑えた2~4名乗車の2シーター、または2+2クーペの登場です。

テールゲートを持つファストバックスタイルで、スポーツカーらしいルックスと広い荷室を持つ実用性を兼ね備えたクーペとして、日産からはフェアレディZ(1969年)、トヨタからはセリカ(1970年・リフトバックボディのセリカLBは1973年)が発売されました。

美しく高性能でも手が出ない高価な趣味性の高いモデルではなく、手頃な価格で購入できる専用ボディの国産スポーツカー(※)は、1970年頃がその始まりと言えるでしょう。

(※セリカは厳密に言うと、大衆向けセダン「カリーナ」のプラットフォームを使ってスポーツカーボディとした、「スペシャリティカー」)

プアマンズポルシェ的な北米の需要が支えた国産スポーツカー

安価な国産スポーツカーは日本国内でもヒットしたが、北米など海外のスポーツカーファンの心をつかんだ初代フェアレディZの功績なしには、採算が取れる継続的な販売は無理だったかもしれない
出典:flickr.com Author:Ben CC BY 2.0

ただ、1970年前後の日本は、1966年の「マイカー元年」を境にようやく庶民が普通に自動車を所有するようになったばかりの時代ですし、実用性も兼ね備えて安価とはいえ、ファミリーセダンより高価なスポーツカーは、販売面からすれば、やはり脇役です。

日本国内の需要だけではとても採算は合わず、1970年代に喫緊の課題となっていた安全性向上や排ガス規制対策、燃費改善による経済性向上に大きなコストをかけたうえで、従来通りの安い大衆車を販売し続けるとなれば、なおさら。

そんな国産スポーツを支えたのが、1ドル360円の固定相場制時代から、1985年の「プラザ合意」で円高ドル安が始まるまでの北米市場で、円安ドル高を背景に安く買えて、性能と実用性のバランスがほどよく取れ、スタイルも良い日本のスポーツカーはよく売れました。

その代表格が、北米日産の企画で誕生した初代フェアレディZで、2シーター、2+2シーターともに思惑どおりよく売れ、排ガス規制は2.4リッター(240Z)から2.8リッター(280Z)への大排気量化などで乗り切っています。

トヨタも、セリカのフロントを延長してフェアレディZ同様の直列6気筒エンジンを積んだ「スープラ」(初代1978年、2代目までの日本名は「セリカXX」を発売しますが、最初から完成されたデザインのフェアレディZには及びません。

北米の「ダットサン◯◯◯Z」(◯◯◯は240など排気量由来の数字が入る)、通称「Z(ズィー)カー」は、マツダのロータリークーペ、サバンナRX-7(初代1978年)ともども、「プアマンズポルシェ」的な人気を誇り、北米のクルマ好きを熱狂させました。

1980年代後期のバブル時代から1990年代国産スポーツ黄金期以前、国産スポーツカーを支えた北米で、もっとも大きな役割を果たしたのは初代フェアレディZであり、現在まで続く大衆向け国産スポーツカーの原点と言えるでしょう。

もし初代フェアレディZがなかったら、日本車の文化はだいぶ華々しさに欠けたものになっていたかもしれません。

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