昭和を愛するタブレット純さんがチョイスした可愛いTシャツ(撮影◎本社 奥西義和)

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6月30日には『笑点』で歌謡漫談を披露、会場を沸かせたタブレット純さん。7月5日には、オトナの歌謡曲プロデューサー・佐藤利明と「昭和歌謡」を語るトーク番組『昭和の歌謡百貨店』が「Rチャンネル」内の『演歌・歌謡チャンネル』で配信スタート。7月8日には及川眠子がプロデュースするDIVAユニット「八方不美人」と有楽町アイマショウで「ザ・昭和歌謡フェス 八方不純祭」に出演する。半生と昭和歌謡愛を語ったインタビューを再配信します。*********中性的なビジュアルと抜群の歌唱力、声帯模写などを交えた「ゆるい」トークで人気を博している歌手で芸人のタブレット純さん。幼少期よりラジオを通して歌曲の魅力にハマり、思春期には中古レコードを愛聴。昭和歌謡の研究に没頭する日々の中、古本屋店員、介護職を経て、往年のファンである「和田弘とマヒナスターズ」のボーカルに突如抜擢された。グループ解散後は都内のライブハウスにて活動、現在のマネージャーにスカウトされメジャーデビュー。波乱万丈の半生と、昭和歌謡への思い入れを聞いた。 (構成◎碧月はる 撮影◎本社 奥西義和)

【写真】かわいい!赤帽体操服のタブレット純さん

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昭和歌謡の存在が孤独を埋めてくれた

幼少期、タブレット純さんはさまざまな葛藤を抱えていた。いじめ、視線恐怖、セクシュアリティの悩みなど、誰にも打ち明けられない悩みを抱えた日々において、昭和歌謡や芸能史の存在が、孤独感を埋めてくれたという。

子どもの頃から、「自分は普通には生きられない」という感覚がありました。引っ込み思案なだけではなく、忘れ物も異常に多かったんです。なおかつ、子ども時代に同性である男の子が好きだったというのもあり、人と違うことだらけだったのがすごく苦しかったですね。

今でも覚えているのは、中学の2年間「鏡を見ない」時期があったことです。見た目も含めて、自分のすべてが嫌だったので。学校でいじめにも遭っていて、学校に行くふりをして休んだりもしていました。なので、自分自身からどこか逃避していて、スポーツ選手や芸能人に夢を託していました。

学生時代から昭和歌謡や昭和芸能史のマニアだったのには、そういう背景があります。好きな芸能人や歌のことをいろいろ調べている時間は、自分の抱えている問題を忘れられる。だから余計に熱中しましたね。まだCDが出る前で、ネットもない時代だったので、録音したラジオを自分で編集してオリジナルのカセットテープを作ったり、中古レコードを集めたりしていました。そうやって自分なりに知識を深めていったことが、今の仕事につながっています。

とはいえ、もともとは表舞台に立つような仕事をする気は一切なかったんです。子どもの頃から引っ込み思案で、人前に出るなんてとんでもない!という感覚が強かったので。

でも、長年働いていた古本屋が潰れてしまって、その後はじめた介護の職場も潰れてしまって。いよいよどうしようと思った時、中学時代から文通していたGS(グループサウンズ)研究家の方の生き方に影響を受けて、ムードコーラスの研究をはじめました。その過程で、昔から大好きだったマヒナスターズのメンバーの日高利昭さんが主催するカラオケ教室に、アポなしで押しかけたんです。

憧れていたグループにいきなり加入

インタビューが目的だったんですけど、「その若さでマヒナスターズが好きだなんて」と驚かれて。話の流れで、歌を習うよう勧められたのですが、通い始めて3ヵ月後に、マヒナスターズが分裂してしまったんです。その後、僕の所に突然日高さんから、「リーダー(和田弘さん)が会いたがっている。明日来られるか」と連絡が。

なんだろうと思い行ってみたら、和田さんがその場にいらして、「ちょっと歌ってみて」と言われました。それで何曲か歌ったら、「今日からメンバーだから」と。当然、最初は「え?」ってなりましたけど(笑)、「田渕純」として加入することになりました。


草月ホールでのリサイタルで (撮影◎御堂義乘)

当時、カラオケ教室のおばさまたちが自分のことを可愛がってくれていて、その方たちが僕をメンバーにと推してくださったみたいです。あと、僕は元々マヒナスターズの大ファンなので、全部の楽曲の歌詞がすでにインプットされていたので、最悪声を出さなくても口を合わすことはできる、ということも大きかったのでしょうね。

その頃、社会にうまく適応できない自分にひどく落ち込んでいた時期でもあったので、「この話を受けなかったら一生後悔する」と思い、メンバーに入ることを決めました。メンバー入りして1週間後にはレコーディングや写真撮影があって、目まぐるしい日々に。

とはいえ、小学校の卒業アルバムに「好きな芸能人」として書くほど憧れていたグループにいきなり入れることになって、本当に夢心地で。でも実は、不安のほうが大きかったんです。両親にも相談しましたが、僕が当時、とにかくどうしようもない状態でしたので、反対されることはありませんでした。

人の視線が怖い。酒をやめられない日々

憧れのマヒナスターズへの突然の加入が決まり、夢のような日々が幕を開けた。だが、元来人前に出るのが苦手なタブレット純さんは、ステージでの緊張を和らげるための飲酒が習慣化してしまう。

子どもの頃から大好きなマヒナスターズに入れたことは、本当に嬉しかったです。でも、ずっと表舞台から縁遠いところで生きてきた自分が、突然憧れのメンバーに加入することになったプレッシャーは大きくて、だんだん酒浸りになってしまって。

はじめは緊張を和らげるためだったのが、だんだん常に飲んでいる状態になっていき、そこからおよそ10年間は人と話すこと自体、飲まないと不可能になっていました。

歌手として活動していた時期は、ほぼ毎日のように酒を飲んでいました。そんな折、同世代の歌手の渚ようこさんが声をかけてくれて、地元の相模原市から東京に上京しました。

それで、ライブハウス回りの仕事をするようになったのですが、酒の量がさらに増えてしまって。その頃は完全にただの酔っ払いみたいな扱いで、いつも酔っていることを逆に面白がられるみたいな雰囲気がありました。

でも、正月の新春リサイタルでひどい舞台をしてしまい、アンコールすら起きないような状況で……。そこで、もう本当に酒をやめようと思って、同時に「歌手も完全にやめよう」と決めたことがあったんです。

辿りついたのは「介護の仕事がしたい」という答え

歌手をやめて、これからどうしようと考えた時、辿りついたのは「介護の仕事がしたい」という答えでした。

歌手になる前も介護の仕事をしていたのですが、その時には仕事ができなくて叱られてばかりで。でも、ご高齢の利用者さんからはなぜか好かれていて、話が合う部分も多かったので、そういう意味では向いているのかな、と。

「橋本くん(タブレット純さんの本名)じゃなきゃやだ」と言ってくれる方もいたので、介護職に身を投じようと決めて、デイサービスで働きはじめました。デイサービスにはレクリエーションの時間があって、そこで「歌える」ことを重宝してもらえたのが嬉しかったですね。


可愛いギターで「コモエスタ赤坂」のワンフレーズを口ずさむタブレットさん

介護の仕事は、実際にはどんどん暗くなっていく現実や、シビアなエピソードもたくさんあります。でも、それをいかに笑いに変えていくかがデイサービスの在り方の一つでもあるので、あの仕事はやはり尊いなと思っていて。

長く生きてきた方の尊さにも触れて、その中で自分の歌の価値を認めてもらえたことで、ようやく暗闇から抜け出せたような気がしたんです。

酒を飲まずにステージに立てた、お笑いの舞台

介護の仕事を通して、他者に必要とされる喜びを見出したタブレット純さんは、その後さらなる転機を迎える。浅草の東洋館でお笑いの舞台に立ったのを機に、はじめて抱いた前向きな思いとは。

一時は「やめる」と決めた歌手の仕事も、結局なんだかんだで依頼は絶えなくて。「やめたんです」と言っても、「何とか出てほしい」とライブハウスからお誘いがあったりしたので、介護の仕事と並行してやっていました。

ちょうどデイサービスにバンドマンの人がいて、その人とバンドを組んだりも。そうしているうちに心身が元気になり、ステージも自然と楽しめるようになっていきました。そんな最中に、浅草の東洋館でお笑いの仕事に出会い、今のマネージャーにスカウトしていただいたんです。

はじめて酒を飲まずにステージに立てたのは、お笑いの舞台でした。最初こそ飲んでいたんですけど、ある日突然、「お笑いの舞台では、ありのままの自分で笑われてもいいんじゃないか」と思えるようになりました。

歌手としてはまったく日の目を見なかったんですけど、お笑いの仕事ではじめてテレビにも出られるようになって。さすがにテレビに出る時は酒は飲めないと思って、そのあたりからいつの間にか飲まない習慣ができていました。

一時は酒のせいで朝か夜かもわからなくなっていたので……今思うと間違いなく依存症だったと思います。仕事の面だけではなく、そういう意味でもお笑いに救われたところがありますね。

等身大で生きはじめた途端オファーが増えた

歌手になった当初は、自分を良く見せようという意識が強くて、周りを気にしてばかりいたんだと思います。

でも、自分は自分のままでいいやと開き直って等身大で生き始めた途端、オファーがどんどんくるようになりました。

なので、これまで色々悩んだことも無駄ではなかったのかなと今は思っています。逆に、いきなり歌手になった時にスター街道まっしぐら、みたいになっていたら、もっとひどいことになっていたんじゃないかな。

実は、マヒナスターズのメンバーを訪ねたのも、介護の仕事を通して初めてお付き合いした女性に背中を押された部分があったんです。なので、自分の人生の分岐点において、都度「介護の仕事」が下地になっていたように思います。

ただ、未だに人の視線が怖くて、自分自身が出演するテレビやラジオは、一切見ないし聞きません。「見られるのが恥ずかしい」「自分を見るなんてとんでもない」と思ってしまうんです。だから毎回、ステージは崖から飛び降りるぐらいの覚悟でやっています。