『スターウォーズ』における白いヘルメットを被った歩兵は、「顔」を失い「生の主導権」をテクノロジーに奪われた状態を描いているのかもしれません(写真:metamorworks/PIXTA)

「スターウォーズ」で表現される前近代と近代、そして「帝国」とは何か。奈良県東吉野村で「人文系私設図書館ルチャ・リブロ」を運営する古代地中海史研究者の青木真兵氏が、佐伯啓思氏の著書『近代の虚妄 現代文明論序説』などから読み解く。

「スターウォーズ」第一作の世界観

かの有名な『スターウォーズ』第一作は1977年に公開されました。

監督はジョージ・ルーカス。「遠い昔、はるか彼方の銀河系で……」という本作が始まるまでの物語内の歴史的経緯が荘厳な音楽とともに、宇宙をバックに説明されるオープニングシーンはとても有名です。


舞台となるのは宇宙全体が帝国の支配に組み込まれていく中、その一元的な支配に対して抵抗する共和国側が反乱軍として戦っている世界。

『スターウォーズ』はさまざまな要素が含まれた作品ですが、本作の物語の主軸は、フォースという不思議な力を持つ少年が帝国との戦いを通じて成長していくという冒険譚です。

主人公は田舎に住むルーク・スカイウォーカーという少年。本当の両親はおらず、叔父さんと叔母さんと三人で暮らしています。

そんな折、たまたま共和国側の船から逃げてきたドロイドと呼ばれる二体のロボットと出会い、それをきっかけに村のはずれに住んでいる「変な老人」と関わることになります。この老人はフォースを持っており、ルークのこと、ルークの本当の両親のことも知っているらしい。そして実は逃げてきたドロイドの一体は、共和国の姫から老人宛ての救援メッセージと、帝国が開発した巨大な兵器の設計図を持っていたのです。

こうして少年と老人、二体のロボットは姫の救援する旅に出ることを決め、少年の冒険の旅が始まります。

老人曰く、ルークはフォースを持っているとのことですが、本作ではフォースという不思議な力を具体的な目的のために使用することはありません。

一方、本作の中でフォースを扱うことのできる人間が二人います。それが老人と帝国軍のメインキャラクターで黒いヘルメットを被り、長いマントを羽織った将軍、ダースベイダーです。

このようにフォースを持っていることがイコール「善」ではなく、フォースを有していても「悪」がいることがわかります。

精神と物質が切り離された世界

しかし本作の世界では、ダースベイダーにせよ老人にせよ、ジェダイは圧倒的に少数者であり、前時代の遺物のような扱いを受けています。明らかにこの世界を支配するのはフォースではなく、テクノロジー(科学技術)なのです。

帝国軍は星一つを一瞬で吹き飛ばしてしまうテクノロジーを持っています。このような帝国と共和国の国力の差が科学技術の圧倒的な力の差として表されています。共和国側こと反乱軍が頼るのは旧式の武器や攻撃機、そしてフォースです。

ただし、反乱軍の兵士たちもフォースで帝国に勝てるとは思っていません。メインウェポンは科学技術なのです。しかし戦闘に出かける際、反乱軍の兵士は口々に「May the force be with you」(フォースのご加護があらんことを)と仲間に対して口にします。

つまりフォースは物質的な兵器とは異なる、あくまで精神的なものでしかないという認識を、この世界の人びとが持っていることがわかります。

本作のように、帝国軍が圧倒的な軍事力によって宇宙中を支配していく世界はまったく「精神と物質が切り離された世界」です。

そのような価値観が常識である帝国軍の他の将軍から見ると、ダースベイダーも「怪しい魔術師」以外の何者でもありません。

この関係は、僕たちの現実においても近代世界が成立した状況と同じです。精神と物質を切り離して認識することで近代科学は成立し、人類による生産活動や消費活動だけでなく、破壊活動までも凄まじいスピードで激化していきました。

この歴史的過程の中でヨーロッパからの植民者によって原住民は大量に殺され、日本でも約260年続いてきた江戸幕府は滅亡します。さらに太平洋戦争でアメリカ合衆国は原子爆弾をはじめ、巨大な軍事力によって日本を完膚なきまでに破壊したのです。

つまり「精神と物質が合一である世界」(前近代)より「精神と物質が切り離された世界」(近代)のほうが強いのだという論理が、19世紀から20世紀前半を支配していた帝国主義の考え方では一般的でした。思想家の佐伯啓思は、近代の自然への眼差しを以下のように述べています。

 近代の自然科学は、イデアを排して、自然を、人間が観察し分析し研究できる対象として「かり立て」、そのようなものとして、こちら側に「立てた」。自然はもはや、われわれが、五感で感じ、詩的想像力の源泉となり、その多様な意味を経験によって捉え、肉眼の観察で知りうるような散文的対象ではなくなる。またあらゆる生命活動がそこで乱舞する舞台でもなく、生物的生命が育まれる生きた世界でもなく、時間の動きの中で万物が生々流転する舞台でもなくなる。それはいわば死んだ、それゆえに、固定化され、対象化されて客観的に扱いうる物質相の世界へと捉え直されたのである。

(佐伯啓思『近代の虚妄 現代文明論序説』東洋経済新報社、315頁)

近代の果ての「ワーケーション」

僕のいう「精神と物質が合一である世界」とは、佐伯の言うように「自然を五感で感じ、詩的想像力の源泉となり、多様な意味を経験によって捉え、肉眼の観察で知りうる」ような世界のことだといえます。

しかし近代になり、自然は「対象化されて客観的に扱いうる物質相の世界へと捉え直され」ていきます。現代でもなお、この近代科学の考え方が貫かれています。

僕たちもできるだけハイスペックなPCを買い求め、より速く、より大きなデータを扱うことができ、サクサク作業が進むことを求めています。この延長線上にはテクノロジーに主導権を完全に奪われ、世界中どこに行っても普段と同じような仕事ができてしまうため、ワーケーションなどといって休暇と仕事の区別もつかなくなっている世界があります。

もちろん、テクノロジーを道具として用いて休暇と仕事を自分で切り分けつつ、マイペースに生活を送れているのならまったく問題はないのですが。

すさまじいスピードで発展するテクノロジーは、僕たちの無限の欲望を無条件で肯定してくれます。そのテクノロジーに頼り切り、その速さ、強さを求めていると、僕たちはより合理的に、より効率的に生きていくことを求めるようになります。

すると僕たちは着実に「顔」を失っていきます。「顔」を失うとは、「生の主導権」をテクノロジーに奪われるとも言えるでしょう。それは本作における白いヘルメットを被った、数多いる歩兵と同様の状態です。

また、「顔」を失ったほうがこの競争社会で勝ち上がることは簡単だ、「どうせ世界は弱肉強食だぜ」と弱者を食い物に社会的成功を得ている人間は、黒いヘルメットを被ったダースベイダーなのだといえます。

「迷惑をかけるな」「わきまえろ」の果てに

しかしみなが「顔」をなくし、弱肉強食の世界を押し進めてしまうと「誰もいなくなってしま」います。福祉社会学者の竹端寛はそんな状況を以下のように描いています。

 「迷惑をかけるな」「わきまえろ」。こういった命令形は、他者や世間による、自分自身の可能性へのリミッターとなっています。自分がしてみたいこと、興味のあること、気になっていることも、「迷惑をかけるな」「わきまえろ」といった他者比較や他者評価の基準で自己点検し、その範囲内でやっても許されると確信が持てたらする。そうでなければ諦める。
 このように、自分自身の可能性にリミッターをかけていくと、どうなるでしょうか。自分自身が他者の顔色をうかがい、理不尽にも耐え、言いたいことも言えず、やりたいこともやらず、他者の意向を優先し、我慢し、それでも地道にコツコツ努力している。(中略)
 自分が我慢しているのだから、他の人も同じように我慢すべきだ。それは、次のようにも言い換えられそうです。

 自分の尊厳が護られていないのだから、他者の尊厳を大切にできない。
 自分の権利を大切にできないのだから、他者の権利に想像が及ばない。

(竹端寛『ケアしケアされ、生きていく』筑摩書房、2023年、98-99頁)

「誰もいなくなってしまう」とは、物理的に全人類が消滅するという意味ではありません。「顔」のある人間がどこにもいなくなってしまうという意味です。

「顔」のある人間は、竹端の言葉を借りるならば、「自分自身の可能性にリミッター」をかけない人間です。そして僕たちが目指すケアフルな社会とは、「自分自身の可能性にリミッター」もかけないし、「他者の可能性にもリミッター」をかけない社会であり、「自分の尊厳を護りつつ、他者の尊厳を大切にする」「自分の権利を大切にすることで、他者の権利に想像を巡らせる」社会です。それが「顔」のある社会です。

ではどうすれば、自分たちの「顔」を取り戻すことができるのか。話がだいぶ遠回りしましたが、僕は本作をそういう主題に貫かれた映画なのだと理解しています。

僕たちが「顔」を取り戻すためには、軍事力が世界を制する「精神と物質が切り離された世界」ではなく、「精神と物質が合一である世界」に立ち返る必要があります。

しかし完全に時代を逆に戻すことはできません。そこで本作がヒントになります。本作では、特に戦闘シーンである後半を除くと、前半にたくさん出てくるシーンがあります。それが「ドロイドを修理する」シーンです。

とにかく映画の前半はルークやその仲間たちがドロイドや機械をどのように扱っているかが、とても丁寧に描かれています。ルークは逃げてきたドロイド二体を修理する過程で、お互いにコミュニケーションをとりながら信頼関係を深めていきます。また途中でルークたちに合流するお尋ね者も、古い宇宙船を修理しながら大変な事態を乗り切ってきたことを誇らしく語ります。

一方、帝国の人間がドロイドを修理したり、機械のメンテナンスをしながら言葉をかけ合うシーンは描かれません。

修理することは「手をいれる」という言い方もします。反乱軍のメンバーは旧式の武器やドロイドに手をいれながら使っています。それは「思ったようにはいかない」ことを前提にしているとも言えます。計画どおりにいきっこないから、手を入れながら、調整しながらやっていきましょうという思想です。

そのような、手をいれたり、手を使ったりすることが、本作では「精神と物質を媒介するパス」になっているようです。

その結果、「精神と物質が合一である世界」に立ち返る余地が生まれてきます。その余地があるからこそ、「May the force be with you」という言葉が口をついて出てくるのです。

帝国軍のように「精神と物質が切り離された世界」において、計画どおりに進まないことは不利益を被るばかりです。一方で「精神と物質が合一である世界」を生きる反乱軍は、人間の手が入れられるよう、想定どおりに進まないことを前提に計画が立てられています。映画のラストシーンに関わるので言及はしませんが、その想定どおりに進まないことによって反乱軍は大きな利益を得ることができました。

「手を入れる」ことのできる余地を残す

僕たちの社会に目を移すと、完全自動化、完全オンライン化がもたらす未来像は、スターウォーズにおける帝国が支配する「顔」のない世界だとしか思えません。

そういう未来にならないようにするためには、僕たちはどうしても「May the force be with you」と声をかけ合える余地を残しておかねばなりません。

そのためには機械にも計画にも「手を入れる」ことのできる余地を残しておくこと。

本作『スターウォーズ』はそれを僕たちに伝えてくれているのです。

(青木 真兵 : 「人文系私設図書館ルチャ・リブロ」キュレーター、古代地中海史研究者、社会福祉士)