デジタルマーケティングやネット広告の歴史を振り返る意欲作『欲望で捉えるデジタルマーケティング史』を上梓した森永真弓氏。歴史書を紡ぐかのような作業を語ってもらった(撮影:今井康一)

変化の激しいネット業界。業界にいる人であっても、「たった数年前と今で、大きく状況が変わっている」と感じている人も少なくないだろう。そんななか発売されたのが『欲望で捉えるデジタルマーケティング史』だ。

「Yahoo!BB」、「mixi」や「前略プロフ」など懐かしのインターネットサービスやキーワードとともに、ビジネス的な潮流から、デジタルマーケティングやネット広告の歴史を振り返る、意欲的な一冊となっている。

その著者が、博報堂DYメディアパートナーズメディア環境研究所にて、上席研究員を務める森永真弓氏。大学生だった90年代からネットに親しんできた彼女だが、2000年代に開催されていた勉強会の資料やデータを集めることは容易ではなく、「化石を発掘し、歴史を紡ぐ作業のようでした」と語る。

ネットの歴史を語る難しさとは

1990年代後半のデジタルマーケティング業界の誕生から、2010年代後半のインフルエンサーマーケティングの浸透などネット広告産業に多くのプレーヤーが参入する現在に至るまでを振り返る本書。

その執筆のきっかけは、「新しくデジタルマーケティング業界で働く人たちに向けて、ネットの歴史を振り返る勉強会をしてほしい」という、とある企業からの依頼だったという。

「その会社は、インターネット黎明期からデジタルマーケティングに関わってきた組織だったので、最初は『広告会社のいち社員の私なんかより、社内でやったほうが絶対にいいですよ』と遠慮したんです。

でも話を聞いていくと、過去の失敗などの経験が社内でうまく引き継がれてこなかった結果、『それずっと前に解決していたよ』というトラブルがあちこちで発生していることを知って。人材の出入りが激しいデジタルマーケティング業界では、勤続年数が短い社員ばかり……というところが意外と少なくないんですよね」

こうして、2001年からデジタルマーケティング業界に身を置く、いわば「ネット業界の生き字引」の森永氏に、白羽の矢が立った。

また同じ頃、森永氏はNHKの特別番組「平成ネット史(仮)」に出演。そこで、インターネットが普及してから四半世紀が過ぎ、その歴史を振り返る動きが各所で生まれていることを強く感じたのも、執筆の動機になった。

「『平成ネット史(仮)』には、『〇〇が取り上げられていない』といった感想が視聴者から多く寄せられました。そうした感想の中には私が忘れていたこともあり、番組づくりに関わる中で、思い出すことも多くて、記録として残したり、体系化したりすることの大切さを痛感して。

そういう意味では、ネット広告は、テレビCMなどのマス広告とは別の広告賞を立ち上げるしかなかった歴史があるし、また、サービス自体が終了することで消えてしまったものも多い背景がありました。

勉強会の依頼が来たのは、『せめてデジタル業界独自で設立された賞を受賞したネット広告くらいは整理・動態保存したほうがいいのではないか』と私なりに心配になっていたタイミングでもあったんです」

欲望の視点で歴史を振り返る

「ネットとは違いますが、オタクカルチャー黎明期を知る当事者たちが当時の証言を残せないまま、高齢化していった現状を見ていたことも、この本を作る動機のひとつでした。コミックマーケット創設者の米沢嘉博氏は2006年に亡くなっていますが、本人の詳細なインタビューなどは残されていないんですよ。

当然、ご本人だからこそ語れることや知りうること、空気感もあったはずですが、ましてネットの世界では古いデータが容赦なく消えてしまう側面もある。本来、残すべき価値あるデータもいずれは消え、人々の記憶からも忘れ去られてしまう可能性が高いと思いました」


森永真弓(もりなが・まゆみ)/株式会社博報堂DYメディアパートナーズメディア環境研究所上席研究員。千葉大学工学部を卒業後、NTTを経て博報堂に入社し現在に至る。コンテンツやコミュニケーションの名脇役としてのデジタル活用を構想構築する裏方請負人。テクノロジー、ネットヘビーユーザー、オタク文化研究などをテーマにしたメディア出演や執筆活動も行っている。自称「なけなしの精神力でコミュ障を打開する引きこもらない方のオタク」。WOMマーケティング協議会理事。著作に『欲望で捉えるデジタルマーケティング史』、『グルメサイトで★★★(ホシ3つ)の店は、本当に美味しいのか』(共著)がある。(撮影:今井康一)

こうして勉強会のために作った資料は、その後、周囲の勧めもあり、あれよあれよという間に書籍化へと進んでいった。森永氏としては予想外の展開だったが、時代の要請がそれだけ強かったようだ。

さて、先述の「平成ネット史(仮)」が言わばユーザー側・文化的な側面からネットの歴史を掘り下げた番組だったとすれば、本書は“ビジネス面からネットの歴史を振り返る”というのが基本のコンセプトとなっている。

広告の戦略論では“ニーズ”や“インサイト”といった言葉がよく使われるが、「儲けを増やしたい」「手間を省きたい」「効果を確認したい」という企業や個人の根元的な「欲望」に軸を置いていることが本書の特徴だ。

「テクノロジーの世界は登場と普及のタイミングにタイムラグがあるので、最初はどう整理すべきか悩みました。mixiの登場は2003年だけど、実際に流行したのは2008年頃。iPhoneは2007年に発表され、日本での販売開始は2008年ですが、本格的に普及したのは2011年の東日本大震災以降になります。『鎌倉幕府は結局、何年に成立したの?』……じゃないですけど、ネット業界に新しく入った人が教科書にできる本を目指していたので、その辺りは悩みましたよね。

最終的には、インターネットの歴史をつくってきた人間の『欲望』にフォーカスし、ホームページブーム、ブログブーム、SNSブームといったサイクルごとにまとめると、流れもわかりやすいなと考えました。そうして完成させた企業研修用のドキュメントをもとに、勉強会ではあまり盛り込めなかった技術的な話なども加筆したものが、今回の書籍なんです」

資料集めはまさに「発掘作業」

ネットが人の集まる情報通信メディアである以上、そこには広告やマーケティングが存在し、その歴史をひもとくことはインターネットビジネスの歴史をひもとくことになるわけだが、その資料集めは先述したようなネット業界特有の事情などもあって難航したようだ。

「勉強会の資料づくりのため、最初は2000年代前半の資料を、社内外向けにインターネット勉強会していた人たちからかき集めようとしました。でも、実際はほぼ出てこなかったんです。

ハードディスク容量が少なかった2000年代前半は、古いファイルが邪魔になりやすいうえ、変化も激しいインターネットの世界では少しでも古い情報を出すと『遅れている』『間違っている』と思われやすいため、みんなわりと躊躇なく古いファイルは捨てていたんですよ。20人から30人ほどに声をかけたのですが、最終的に2000年代前半のファイルを保有していたのは2人でした」

ハードディスクの容量がテラ時代に突入して10年余りだが、そもそも2000年代前半といえばYouTubeも上陸前。当時の勉強会資料や広告メニューを記したファイルなどを提供してくれたのは、定年退職や転職などで、すでにネット業界を去っていた人たちだったというから面白い。

ただ、そう語る森永氏も、2005年以降のデータは保存していたという。

「ハードディスクがクラッシュしてデータがすべて飛んでしまう事件が2005年にあったことがきっかけで、それ以降は、外付けのハードディスクにデータを移すようにしていたんです。とくに整理もしていなかったのですが、逆によかったですよね。整理したらそのときの感覚でフォルダ丸ごとゴミ箱とかに入れたくなるので」

今日のデジタルマーケティングを形づくったスマホ

簡単に複数の媒体へ出稿できる「アドネットワーク」が1990年代後半に整備され、2000年にはGoogleが世界で初めて「検索連動型広告」を実装するなど、ネットユーザーの増加とともに進化してきたインターネット広告。


今や単にインターネット上の広告枠に出稿する「インターネット広告」だけでなく、デジタルを駆使して取得したデータを活用していく「デジタルマーケティング」は、あらゆるビジネスに浸透している。

そんな今日的な「デジタルマーケティング」に至る流れを振り返るうえで、決定的な影響を及ぼしたのがスマホの普及だと森永氏は指摘する。

「iMacとYahoo!BBという、安いパソコンとネット回線が登場し、インターネット環境を持つ家庭が2002〜2003年頃から加速度的に増えたのが、本当の意味でネットが日本に根付いたタイミングだったと思います。

あと、日本の場合はiモードなどガラケーからのネットユーザーが多かったことも、その後mixiなどのSNSやスマホが大きく跳ねた土壌になっているしょうね」

ネットに接続する時間が増え、「まずはネットで調べる」という生活者の購買行動も変化。デジタルマーケティングは、店舗を起点として販売促進や売り上げ拡大を図るインストアマーケティング以上の存在感を獲得した。

デジタルのコミュニケーションマーケティングに立脚したマーケターは、現在のビジネスの潮流においては一種の花形職種と言っても過言ではないだろうが、その背景には、多くの無名の人々の仕事という、歴史の積み重ねがあるのだ。

(伊藤 綾 : フリーライター)