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努力は報われつづけている!

しばし考え込んでいました。先日の競泳日本選手権で池江璃花子さんが発した「努力は必ず報われる」という言葉についてです。この言葉については、長い時間に渡って議論の種となり、そうだ、そうじゃない、さまざまな意見が述べられてきた類のものです。そして近年では、「報われるとは限らないけれども」という但し書きが添えられることが多くなったように思います。

そんななかで久々に真っ直ぐに打ち放たれた「努力は必ず報われる」というメッセージ。これには早速、「そうじゃないのでは?」という疑問を投げかける向きもあり、改めて考えを深めるいい機会となりました。池江さんの言葉だからこそ、これまで以上に考える機会にもなったと思いますので、僕もひとつこの言葉と向き合ってみようと思います。

↓元発言はコチラでご覧ください!


↓「練習しない」アスリート藤光謙司さんからは「違うのでは?」というご意見も寄せられました!

努力とは何か、報われるとは何か、そして生きるとは何か!

そういうことを考えるキッカケになります!



努力は報われるか報われないか問題に関する発言としては、イチローさんの「報われるとは限らないですね。もっと言えば、努力と感じている状態はまずいでしょうね。その先に行けばきっと人には努力に見える、でも本人にとってはそうでないという状態が作れる。そうすれば勝手に報われることがあるんです」というものがあります。これはむしろ努力のあり方を語る言葉ですが、「努力」は確実に「報われるものとは限らない」という内容です。

少し軸が異なりますが、ダルビッシュ有さんの「練習は嘘をつかないって言葉があるけど、頭を使って練習しないと普通に嘘つくよ」というのも、この話のときに思い出される言葉です。こちらも努力のありようについて語った言葉ですが、やれば何でも効果が出るなどということはなく、総じて言えばやはり「努力」は確実に「報われる」ものとは限らないという内容です。

それから羽生結弦氏の言葉、「努力はウソをつく。でも無駄にはならない」という言葉も思い出されます。こちらは「努力」が必ず「報われる」とまでは言い切りませんし、努力が意図どおりの効果を発揮するわけではないことを示唆しますが、まったくの無駄にはならないという話です。「努力」が確実に「報われる」ものとは限らないが、「無駄にはならない」という。

そんななかでの池江さんの強いメッセージ。競技直後という頭ではなく心で発するタイミングの言葉は、深く考え抜かれたものではないかもしれませんが、より心の率直な想いに近いように思われます。「違うのでは?」という声を受けて池江さん自身も再び考え込んでいるものの、それでも「必ず報われる」と思った瞬間は確かにあるのでしょう。「報われた!」と思ったからこその言葉のはずです。

ここでひとつ注目したいのが池江さんの言葉のつづきです。競技直後のインタビューを終えたあと、さらに別口で問われた機会において池江さんは「(心のなかの桜は何分咲きかと問われて)今は7か8くらいですかね」「(どうしたら満開になる?と問われて)いつかオリンピックで金メダル、もしくはメダルを取れたらかなと思います」と答えています。

池江さんは「報われた」と感じるのと、メダルを取れたら満開というまだ完全には「報われていない」ように見える状態を共存させています。おそらくは真の願い、真に目指したものは世界一であり金メダルであるのだろうと思います。その意味では、あの瞬間というのは東京五輪への内定が決まった瞬間ではあるものの、個人での派遣には届かなかったという瞬間でもあり、少なくともその種目においての世界一や個人としての金メダルはなくなったという「報われない」瞬間でもあります。

個人での内定を逃して落胆する者、リレーでの内定を決めて歓喜する者、同じタイム・同じ順位であっても受け止め方はさまざま。その差は「願ったとおり、目指したとおりになったかどうか」というところでしょうか。願ったものが変わらなければ、どれだけ努力をしても届かないことはあるでしょうし、間違った方向に向かえば無意味なこともあるでしょう。その意味では「努力は必ず報われるとは限らない」。

ただ、願いや目標もまた移り変わるものであるわけで、間違った方向に間違った努力をしたとしても、それが功を奏することだってあるはず。プロ野球選手にはなれなかったけれど、そこで得た経験や人脈を活かして別の道で成功するなんて話もあるものです。それは「当初の願いや目標への努力が報われた」わけではないけれど「すべての努力が報われなかった」わけではない、どちらでもあるという状態でしょう。

願いや目標というのは限りがないものです。

努力もある程度の裁量の幅はありますが、それ以上に願いや目標は無限大です。目標を手前に置くこともできるし、目標を遠くに置くこともできる。右にも左にも上にも下にも置けるし、いくつも置くこともできる。もっと言えば無数の願いや目標で世界を埋め尽くすことだってできる。「こうなりたい」という願いや目標を数多く持つことができれば、すべての努力が何かの目標を達成することだって不可能ではないだろうと。世界中に標的を置いておけばどこに矢を放ったとしても「どれかに当たる」ように。

だから、池江さんのような「報われた」「まだ報われていない」が共存する状態だってあるはずなのです。世界に無限に存在する願いや目標のどれかは達成していないけれど、どれかは達成した、そういう状態が。世界のトップを目指すアスリートなどは通例「たったひとつの大きな目標」に向かって努力するものなので、白か黒かどちらかということになりがちですが、決してそんなことはなく、彼らにだって無限大の願いや目標があっていいはずだと思います。

つまりは「報われた」と感じるかどうかは、願いや目標をどれだけ置いておけたかの差だと感じます。池江さんは「世界一、金メダル」という願いだけでなく、もう一度プールに戻ることであったり競泳選手として復帰することであったり、図らずもたくさんの叶うかどうかわからない願いや目標を備えて日々を過ごしてきました。「競技復帰後のベストタイム」という新しい捉えかたで自分の競技力にも新たな目標を置くようになりました。だから同じ結果に対しても、「報われた」「報われていない」が共存しましたし、それを推し進めれば、願いや目標に制限がない以上は「必ず報われる」は正なのです。

「報われない」と感じるのであれば、きっとそれは願いや目標が少なすぎるのです。もっと近くにも、もっと違う方向にも、それを置いておければどこかで「報われる」部分が必ずある。「毎日少しずつ上手くなること」や「自分ではない誰かの喜びとなること」も、素晴らしい願いや目標のひとつでしょう。それはたったひとつの大きな目標を諦めるとか捨てるなんてことではなく、山頂に至るまでにも一歩ずつの歩みがあり、「草花を愛でる」「キレイな石を拾う」といった別の目的を持つことができるのに似ています。

その意味では、努力は報われつづけている、のだと思います。

そのことに気づけるかどうか、心持ちの違いがあるだけで。

そして、報われなかったように思える努力すらも、いつかどこかで「実は報われていたのだ」と気づくことだってできるはずです。たったひとつの大きな目標には至らなかったとしても、無限大の可能性がある願いや目標を無意識に達成していたと過去を振り返って思い直すことはできるはずです。池江さんの「東京五輪で世界一」を目指した努力は一度「報われなかった」と確定的に思えた瞬間があったはずですが、そこから世界が変わり、池江さん自身の願いや目標も変わり、「報われなかった」で確定したはずの努力までもが再び甦ってきました。無駄になったのではなく、ちゃんとつながっていた。

気づかないことも含めて、努力は報われつづけている。

「報われるとは限らないけれども」という但し書きはいらない。

今は世界でたくさんの「報われない」ことが生まれている時期ですが、強い気持ちで「必ず報われる」と思い直していきたいなと思います。たったひとつの大きな目標だけに囚われるのではなく、もっとたくさんの可能性があり、願いや目標には制限がないことを意識しながら。「明けない夜はない」みたいなおまじないの一種かもしれませんが、「努力は必ず報われる」そう思っていきたいなと。そうでないと、正しい努力をできなかった自分を、間違いで、失敗のように思ったりしてしまいそうですし、それはイヤですからね。

じっくり考えまして、僕は「努力は必ず報われる」「というか、報われたと感じてみせる」に1票を入れます。そう思える自分でいられるように、日々を過ごしていきたいなと思います。

そうやって過ごしていくうちに、たったひとつの大きな目標が叶う日も来るかもしれない、そんな希望とともに!



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「報われない」と感じている人にも「報われていた」と思える日が来ますように!