37年前に水死したナタリー・ウッド、当時の夫が重要参考人に浮上

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往年のハリウッド女優、ナタリー・ウッドが水死体で発見されてから35年以上が経過。米現地時間2月3日放送予定のCBS『48 Hours』のスクープによると、捜査当局の間で当時の夫、ロバート・ワグナーが「重要参考人」として浮上したことが分かった。

ハリウッドのミステリーだった「謎の死」

1981年、ナタリー・ウッドが水死体で発見された。突然の、そして早すぎるウッドの死は悲劇的な事故なのか、殺人なのか――。これは彼女の死後35年以上、ハリウッドのミステリーとなっている。

当時43歳のウッドは、カリフォルニア州南部のサンタカタリナ島の沿岸に停泊したプライベート・ヨットにいた。1981年11月下旬のことで、映画『ブレインストーム』の撮影中だった。そしてある夜、彼女の姿が忽然と消え、翌朝約1.5キロ先の海上に溺死体となって浮いているのを発見された。フランネルのネグリジェに赤いダウンコートを羽織った姿で。

2週間の捜査の後、警察はウッドの死を事故死と断定。しかし、それ以降、事あるごとに「事故ではない」という噂が出ては消えていた。当時、このヨットには『ブレインストーム』で共演中だった俳優クリストファー・ウォーケン、船長デニス・デヴァーン、ウッドの夫であるロバート・ワグナーの3人が同乗していたのだが、彼らの証言は食い違っていた。

2011年になってロサンゼルス郡保安局が事故の再捜査を開始。翌2012年に検視官が当初の「不慮の水死」という解剖所見を「沈溺とそれ以外の要因が引き起こした死」と訂正した。米現地時間2月3日放送予定のCBSのニュース番組『48 Hours』のスクープによると、捜査官たちはロバート・ワグナーを正式に「妻の死に関わる重要参考人」として捜査対象に特定した(この件のコメントを求めたワシントン・ポスト紙に対してワグナーの代理人はコメントを拒否している)。

「ここ6年間、事故の捜査を続けてきて、彼がこの事故に関わっている可能性が高まった」と、ロサンゼルス郡保安局のジョン・コリナ副保安官が『48 Hours』に語った。「我々はウッドが行方知れずになる前、最後に一緒にいたのがワグナーだと確信している」と。

ナタリア・ザカレンコとしてサンフランシスコで生まれたナタリー・ウッドは、子供の頃から演技を始め、8歳で出演したクリスマス映画『三十四丁目の奇跡』での演技が絶賛された。映画作品やテレビ番組での端役をいつくか務めた後、10代に成長したウッドは1955年、ジェイムズ・ディーン主演の『理由なき反抗』で純情な少女ジュディを演じ、アカデミー賞最優秀助演女優賞にノミネートされる。20代になったウッドは、ミュージカル映画『ウエスト・サイド物語』と『ジプシー』で歌唱力とダンスの実力を披露。表舞台から少しの間姿を消した後、映画『草原の輝き』と『マンハッタン物語』でアカデミー賞最優秀主演女優にノミネートされた。

ウッドは子役を始めた頃からワグナーと顔馴染みで、10歳の頃にはスタジオでよく会う8歳年上のワグナーに恋心を抱くようになっていた。「母に言ったの、『彼と結婚するわ』って」と1976年にウッドはピープル誌に語っている。その後、彼女はワグナーと結婚する――2回も。

彼らのロマンスの始まりは明らかにハリウッドの古い因習に則ったものだった。ウッドが18歳になったとき、当時の20世紀フォックスの重役が宣伝目的で作ったカップルが彼らの始まりなのだ。その頃、人気急上昇中の俳優ワグナーの恋人としてウッドは完璧だった。彼らの最初の結婚は1957年。その5年後に離婚。そして1962年、2人とも別の伴侶を得て子供をもうけた。ウッドの2番目の夫はイギリス人プロデューサーのロバート・グレッグソンで、娘ナターシャの誕生直後の1971年に離婚している。

そして、この離婚からたった3カ月後の1972年、ウッドは再びワグナーと腕を組んでバージンロードを歩くのである。再婚後に娘コートニーが誕生し、2度目の夫婦生活を幸せに送っているように見えたのだが、この幸せはウッドの突然の死で終わりを告げた。

果たして2人は本当に幸せだったのだろうか? 2011年11月、ヨットの船長だったデニス・デヴァーンが、当時の偽証を告白したことがきっかけで再捜査が開始された。あの運命の夜、ウッドが失踪する直前に彼女はワグナーと激しい口論をしていたことを捜査官に隠していたと、デヴァーンが認めたのである。デヴァーンによると、ワグナーはコーヒーテーブルにワインボトルを打ち付けて割り、それを見たウォーケンは自室に逃げ帰った。その後も2人のケンカが続いたのでデヴァーンが仲裁に入ろうとしたとき、ワグナーに「出て行け!」と命令されたという。そして、その後すぐにウッドの姿が突然消えた。だが、夫のワグナーはさほど心配している様子ではなかったとデヴァーンが証言している。

「彼女がどこに行ったのか、私たちは特に探しもしませんでした」と、2011年にデヴァーンはNBCニュースのデヴィッド・グレゴリーに告白している。「思い起こすと、あの時は『一生懸命探すつもりはない、サーチライトを照らすつもりはない、今すぐ誰かに連絡するつもりはない』という雰囲気でした」。これに続いて、ワグナーがウッドの死に関わっているかとグレゴリーに尋ねられたデヴァーンは「はい、そう思います」と答えている。


1957年の最初の結婚式でのウッドとワグナー(Photo by Hulton Archive/Getty Images)

2012年には検死報告書が訂正され、ウッドの死因から「事故」の文字が消えた。それを受けて、これまで明るみに出なかった事柄が表に出始めたのである。ある捜査官は「ウッドの身体には出来たばかりの青あざがあり、暴行の被害者のようだ」と言っている。最初の検死報告書では、ウッドの血中アルコール濃度の高さが死ぬ直前まで長時間飲酒していたことを裏付け、薬物テストでは鎮痛剤と乗り物酔いの薬が検出されていた。それを踏まえて、検死報告書には「ウッドが足を滑らせてヨットから転落したと推測される」と記載されていた。しかし、2012年に公表された10ページに及ぶ訂正書類には「ウッドが海に落ちた方法は解明されておらず、彼女の遺体の青あざが失踪前につけられた可能性も捨てきれない」と書かれている。

「この一件は殺人と断定できるところまでは行っていません」とラルフ・ヘルナンデス刑事が『48 Hours』に語った。「しかし、これが事故だという証明もできていません。一番の問題は、彼女がどうやって海に落ちたかをまだ解明できていないことです」

ウッドの死に一切関係していないと、ワグナーは自身の関与を公式に否定してきた。2009年の自身の回想録でもそう述べている。しかし、頑なに捜査協力を拒否している事実は彼の関与を疑う十分な根拠となってしまう。一方、ウォーケンはウッドの事故死の再調査が始まってすぐに弁護士を立てて、警察の事情聴取に応え、嫌疑を晴らしている。しかし、生きているウッドを最後に見た人物と思しきワグナーの事情聴取は実現していない。この6年間、捜査官たちは彼に任意の事情聴取を繰り返し求めてきた。このことから、彼が何かを隠しているのではないかと警察は疑うようになったわけだ。

コリナ副保安官は『48 Hours』に次のように語った。「他の証言者の証言とマッチする詳細をワグナーは一度も語っていません。それに彼の話は少しずつ変わっていて一貫性もなく、彼が証言で語った状況は辻褄が合わないものばかりです」