飯田昌男●東京都文京区立礫川小学校教諭。1960年、東京都生まれ。

写真拡大

人生100年時代。折り返しとなる50歳前後で、自身のセカンドキャリアを考え直す人が増えている。今回は、50代で若い頃の「夢」に挑戦し、新しい人生を歩みだした“異色の3人”にインタビューを行った。

----------

BEFORE:大手旅行会社 AFTER:学校教諭
転身年齢:50歳 飯田昌男(いいだ・まさお)さん

----------

■16時半で終業。その後ジムに行き、夕食づくり

「毎朝6時に起きるのは、前職のころも今も変わりません。でも、一日の過ごし方はガラッと変わりましたね」

飯田昌男さん(57歳)は、文京区立礫川(れきせん)小学校で、特別支援学級の教員を務めている。教室の机で、自作の資料をめくりながら穏やかに話す飯田さん。ベテラン教師の佇まいだが、実は教師歴はまだ7年。2010年に大手旅行代理店のJTBを退職して進んだ「第二の人生」が、教員だった。

東京都生まれ。「高校生のころは教師になりたかった」。東京学芸大学教育学部に進学。特別支援学校の教諭免許を取得した。しかし、最初の就職先は東急観光という旅行代理店だった。

「当時は大学で教員免許を取ったら皆が教師になる時代で、一般企業に就職する人はほとんどいませんでした。教員免許があれば、30歳までは採用試験を受けられる。1度、会社員を経験してもいいかと考えたんですよね」

■9時から働いて22時まで残業して、終電で帰ってくる

旅行業の面白さにのめり込み、6年後、日本交通公社(現・JTB)に転職。営業畑を歩み、旅行通販商品のコールセンターの販売責任者など、60人以上の部下を抱える管理職も務めた。「忙しいときは1年で会社に行かない日は10日もなかった」「繁忙期には二晩徹夜で仕事をすることもあった」。いわゆるモーレツ社員だった。

「6時に起きて、妻とご飯を食べてから、風呂に入る。勝負の前の儀式のようなものです。ヒゲを剃って、ネクタイを締める。9時から働いて22時まで残業して、それから飲みに行って。終電で帰ってくるのが当たり前でした」

セカンドキャリアを考えたきっかけは、長男の少年野球チームのコーチをしたことだった。地域の人たちと触れ合う中、50歳を目前に残り10年の仕事人生を考えたとき、ただの利益追求ではない社会貢献への思いが募っていく。

「妻は同じ東京学芸大学のワンダーフォーゲル部で知り合って、卒業後ずっと教師として働いています。まだ個人情報保護が今ほどうるさくない時代、自宅にかかってくる保護者の電話に夜遅くまで応えている姿を尊敬していました。私も、次のキャリアを考えるなら、子供の成長にかかわる仕事につきたいという気持ちが強くなったんです」

そんなとき、東京都の教員採用試験の受験資格が59歳まで引き上げられた。

■「そんなに下がっていない。生活はほとんど変わりません」

もちろん、収入面や条件面、生活のことは現実的に考えていた。まず、福利厚生。JTBで21年勤続したため、企業年金も受け取れる。教員は東京都の公務員なので、手厚い補助がある。バリバリの壮年会社員から、新人の教師へと聞くと、さぞ給与は下がるのではと気になるところだが、「そんなに下がっていないですよ。生活はほとんど変わりません」と飯田さん。

教員として採用される際には、都の給与規定に、前職の経験年数が加味される。管理職ではないので役職手当などはないが、時間給で見れば、むしろアップしているように思える。というのも、生活のリズムがまったく変わったのだ。

「6時に起きて、妻と食事をしてから学校に行って仕事をして。児童が来るのが8時5分。前職ではお昼休みは取れたり取れなかったりでしたけど、学校では給食が12時20分からと決まっています」

15時15分が下校の時間。終業時間は16時半。飯田さんは、平日はできる限り早めに帰り、スポーツクラブで汗を流して夕食づくり。

「楽になったと簡単には言えません。一人ひとりの子供と向き合う仕事ですし、肉体労働というか、体力が要りますから。疲れ果てて21時前に寝てしまうこともしばしばです。ただ、自由な時間ができたことは確かです。実際、転職の理由には、教員である妻が、まとまった休みを取っているのを見て、憧れているのが大きかった。旅行代理店は世間の休みの時期はかき入れ時で、自分の休みは夏なら9月にずれたりもしましたし。今は休みの日には、妻と高尾山あたりをのんびり歩いたり、八ヶ岳や北アルプスに登山に出かけています」

----------

BEFORE:パチンコ機器メーカー AFTER:怪獣造型師
転身年齢:54歳 岡 健之(おか・たけし)さん

----------

■つくった作品をプロに見せたら、「君、才能あるね」

埼玉県上尾市、自然学習館の工作室。木工机の上には、ゴジラやガメラ、ウルトラ怪獣の精巧なフィギュアが立ち並んでいた。怪獣たちの隙間から、生みの親である「造型工房キトラ」造型師の岡健之さん(57歳)が顔を出す。

福島県矢吹町生まれで、高校卒業とともに上京。横浜のメーカー工場、ソフトウエアメーカー勤務を経て、「当時、ものすごく儲かっていた」パチンコ機器メーカーに転職、開発に携わった。

22年勤め、開発の管理職についていた54歳のときに独立。パチンコ機器メーカーから怪獣造型師という、異色のキャリアを描くことに。

「40歳のとき、趣味で怪獣づくりを始めたんです。きっかけは、子供の夏休みの宿題。ゴジラの頭を粘土でつくったんです。本当は、子供がつくったことにして持たせるはずが、もともとゴジラ世代の私が頑張りすぎて、あまりに精巧なものをつくってしまった。父は時計職人、母が洋裁の先生だったこともあって、手先の器用さには自信があったんですよね。『子供のつくったものとは思えない』ということで妻に却下されました」。そう言って笑う。

あまりに出来がよかったため、プロの造型師に見てもらった。「君、才能あるね」。その答えに「調子に乗っちゃいました」。

『めざせ造型師』というブログを立ち上げ、本業の傍ら、創作にのめり込んでいく。幕張メッセで開催される日本最大の模型の展示会「ワンダーフェスティバル」に参加。次第にファンがつき、ブログの閲覧者も増えた。作品への評価も高まって、造型した怪獣のキットが売れるようになっていった。気づけば仕事以外の時間はすべて造型に使っていた。

岡さんによれば「プロの怪獣造型師は全国でも20〜30人しかいない」という。粘土で怪獣の原型をつくり、自ら型を取り、複製して展示会やインターネットで販売する。複製はガレージキットと呼ばれ、少数生産だが、繊細で緻密なクオリティの高い商品として、高額で売買される。洗浄、組み立て、彩色などは購入者が行う。たとえば写真のガメラは、およそ7万円(イベント限定品)で販売されている。

「家のローンが終わって、3人の子供たちも独立しました。月々に必要な額が圧倒的に減って、食べていけるだけ稼げればいい」というところまで絞り込んでの転職だった。

■「魂を込めないと、人を感動させるものはつくれません」

独立1年目は試走期間と割り切り、失業保険をもらいながら開業準備を進め、2年目で起業。年2回のワンダーフェスティバルを軸にスケジュールを立てる。事業計画書をつくって補助金の申請を行ったり、時には円谷プロダクションやKADOKAWAとキャラクターの版権契約を行うなど、だんだんと事業のめどが立っていった。

「造型師には職人肌の人が多くて、書類作成などは苦手にしている人もいます。私は長年会社勤めをしていたので、計画を立てたり、コミュニケーションも取れる。それは強みだと思います」

ただ、職人としてのこだわりは本物だ。「魂を込めないと、人を感動させるものはつくれません」。

独立して3年目。最近では、上尾市の公共施設で子供たちに模型づくりを教えたり、大人向けの造型教室の講師を始めた。造型物の売り上げだけでなく、講師業でも安定した収入を得たいと考えている。

「収入面では、大逆転とまではまだ言えません。売れる売れないで収入には波がありますしね。でも、十分食べてはいけますし、作品が評価されると、とにかく嬉しい。人に教えていると社会に貢献していると心から思えます」

----------

BEFORE:自衛隊 AFTER:路面電車運転士
転身年齢:55歳 緒方成春(おがた・しげはる)さん

----------

■子供のころの夢を、定年後に実現

緒方成春さん(57歳)の経歴も、負けず劣らず異色だ。

陸上自衛隊を満54歳の定年まで勤め上げた後、現在は熊本市交通局で、路面電車の運転士として働く。熊本城をぐるりと囲むように、市街地を走る市民の足であるとともに、低床電車のレトロな雰囲気が観光客にも人気だ。

「自衛隊員はみな退職の1年前くらいに仕事を斡旋されるんです。ガードマンだったり、幼稚園のバスの運転手や、地元メーカーの仕事など。私も用意されている仕事だけではなく、幅広い職業を視野に入れていました。そうしたら、たまたま妻が『運転士募集』の新聞広告を見つけて。子供のころの夢を思い出したんです」

緒方さんは、1961年、熊本市生まれ。子供のころといえば、64年の東海道新幹線開業に伴う空前の鉄道ブーム。緒方さんも新幹線やブルートレインが好きだったが、自衛官だった父の影響もあって、高校卒業とともに陸上自衛隊に入隊した。

定年後、地元熊本の路面電車の運転士の採用試験を受験。適性検査、面接を通過し、運転士として採用された。その後、8カ月の研修に。熊本市の路面電車は「運転士の感覚で止める」。道に不慣れな自動車や、歩き回る歩行者を見ながら、手動で運転をするため、高い技術が求められる。自衛隊で大型車両などの操縦経験がある緒方さんも、「やはり町中で、お客さまを乗せての運転には緊張感があります」。

熊本市交通局では、路面電車の運転士の採用には定年が65歳である以外年齢制限がない。電車の運転士になりたい人のキャリアは様々で、元ガードマンや眼科助手もいるが、交通局によると、「運転士のなり手が少なく、毎年募集中」とのこと。仕事はシフト制だが、現場の事情はカツカツだ。

■「収入的には半分以下になりましたけど、もらっているほう」

「たとえば、6時半に起きて、8時15分から乗車開始、17時まで乗って20時に帰宅する日もあれば、4時半に起きて、6時から15時まで乗車して、帰宅する日もあります。そんな日はビール一本飲んで、19時には寝ています。収入的には半分以下になりましたけど、ほかの自衛隊卒業組と比べると、もらっているほうだと思います」

自衛隊時代は、たとえば離島での任務などで泊まり込むことも多かった。そんな激務を経験し、「同期の隊員の中でも、体力に自信があった」という緒方さんだが「最初のころは余裕かと思いましたが、意外と体力的にはきつくなってきますね」と苦笑する。

2015年末から乗務を始めてしばらくして、16年の4月、熊本地震が発生した。

「自衛隊の仲間たちが災害復興にあたるのを見ながら、自分は運転士として何をすべきかと考えましたね。路面電車ですから、まずは線路の状態を皆で確認して、3日ほどで復旧できたものの、最初はガラガラで、乗客数も落ち込みました。でも、最近では外国人の観光客の方も増えて、震災前よりも賑わっているくらい。路面電車から見える再建中の熊本城が、以前の姿に戻るのを楽しみにしています」

(伊藤 達也 撮影=大槻純一、研壁秀俊、藤原武史)