サッカーの日本対ナイジェリアの試合前、ナイジェリアの国歌ではなくニジェールの国歌が流れてしまった。星のデザインに誤りのある中国国旗が、表彰式で掲揚されるという失態もあった。シンクロや水球が行われるプールに藻が大量に発生したり、競泳選手を乗せたバスが、競泳会場ではなくそこから遠く離れた陸上競技場に向かってしまい、競技開始時間が遅れるというドタバタも。ゴルフ会場における観客のマナーの悪さを指摘する報道もあった。治安の悪さについては、連日のように報じられた。あげつらうように。
  
 日本ではこんなことはあり得ない。リオ五輪を伝えるメディアの報道には、そう言わんばかりの上から目線を覚えずにいられなかった。
 
 僕にはそれが油断に思えて仕方がない。事務処理能力の低下が囁かれる昨今とはいえ、日本では起きにくい種類のミス。治安のよさを含め、そのあたりはいわば日本の得意分野に入る。胸を張りたくなる気持ちは分かるが、一方で日本にも不得意な分野が確実に存在する。外国人旅行者が日本を訪れて不自由に感じていることは何か。
 
 日本人と外国人。お互いは見たり、見られたりの関係にあるにもかかわらず、日本人はこちらから見ているばかり。外からどう見られているか、という視点に欠ける傾向がある。というか、そもそも外の目に無関心。自分の特殊性に気付こうとしない。
 
 2002年日韓共催W杯は自分たちを知るいい機会だった。日韓共催なので、両国は外の目に嫌でも比較される立場に置かれる。というわけで、その大会期間中、僕は日本人という意識を可能な限り捨て、彼らと同じ目線に立ち、日本と韓国を計6回往復した。ホスピタリティに優れていたのはどちらか。答えは簡単に見つかった。

 日本語もハングルも一般的な外国人には解読不能。発音さえできない。英語を話せる人の数もお互いとても少ない。そこで頼りになるのは表示だが、日本はその点で韓国に大きく遅れを取っていた。看板表示の持つ力に日本は気付けずにいた。旅行者の視点に基づいてものを考えることができていない何よりの証拠と言えた。

 その重要性に韓国は気付いていた。「韓国人には英語を話せる人が少ないから」とはある韓国人の弁。言葉が伝わらないことがすべての前提になっていた。日本に遅れを取るわけに行かないとの対抗心が働いていたことも確かだろうが、彼らは自分たちのことを心配していたのだ。日本は全くその逆。その辺りのことを少しも気にしていなかった。比較されていることさえ気付けなかった。

 ハングルはほとんど分からないのに、韓国でのW杯観戦の旅は快適だった。片や日本は、日本語は100%分かるのに、快適ではなかった。スタジアム到着まで、何度も何度も迷うことになった。表示の悪さだけではない。ボランティア等、係員の説明も曖昧で、もっと悪く言えば、いい加減で不親切だった。ホスピタリティという点で、両国の間には歴然とした差があった。

 だが大会後、そうした話は一切検証されなかった。日本人の悪い癖が浮き彫りになった瞬間だった。どちらのスタジアムが優れていたか。アクセスがよかったか、という視点も同様に持ち合わせていなかった。国立競技場問題と、それは深い関係があると僕は思っている。

 表示の悪さは、先日、夏休みで日本に一時帰国していた知人も嘆いていた。東京駅や上野駅の構内を歩いていると、途中で表示が消えてしまう、と。東京在住者でも頭を悩ますことがある。例えば、東急線と相互乗り入れしている副都心線。駅の構内アナウンスは、当たり前のようにこういう。「この電車は東横線内に入ると通勤急行になります」。知りたいのは、その通勤急行がどの駅に止まるか、なのだ。ホームの電光掲示板を見ても停車駅の情報は出ていない。これに限った話ではない。電車の案内は総じて不親切。頭に情報として入っているのは、いつも通勤通学などで使い慣れている人だけ。公共性が疑われる。しかも構内アナウンスは、不明瞭な日本語のみ。外国人にはちんぷんかんぷんだと思う。
 
 2020年東京五輪で来日するであろう外国人観戦者の数がどれくらいにのぼるのか定かではないが、2002年W杯の期間中、日本を訪れた観戦者の数は5万人を越えた。まずすべきことは、彼らの苦労話を聞くことだ。彼らが日本の観戦旅行のどこに不自由を感じたか。スタジアムの座席に辿り着くまで、どんな苦労があったか。
 
 どこに快適性を見いだしたか。言い換えれば、日本のどこか優れているかという話は、テレビ番組でしょっちゅう見かける。外国人タレントを使って、ニッポンのいいところを、日本人に向けて伝える番組だ。特に最近多く見かける。

 自画自賛。我々日本人は、いかに優れているかではなく、いまこの時期、必要なのは、その逆の情報を日本人に伝えることだ。リオ五輪の不手際を報じるなら、その分だけ自分たちを心配すべき。人の振り見て我が振り直せ、である。