「辞めたい」と言ってきた新人が思いとどまった…できる先輩が「なぜ辞めたいの」の代わりに返したたった一言
※本稿は、匠英一監修『すぐに使えるビジネス教養 心理学』(フォレスト出版)の一部を再編集したものです。
■「辞める理由」ではなく「続ける理由」を育てる
なぜ新人は早期に離職してしまうのか。ここでは「辞める理由」ではなく「続ける理由」に注目し、その心理的背景を解説します。自己決定理論を手がかりに、自律性・有能感・関係性がどのように働く意欲を支えるのかを示し、職場でそれらを育てる実践的な視点を提示します。
KEYWORD=自己決定理論、焦点化バイアス
人事部の田代は部下の林との人事戦略の会議で、仕事への期待と実際の業務とのずれ(リアリティショック)を解消できないで辞職する新人が多いことに気づきます。
新人は「自分らしさを求める」のですが、今の業務の中でその理想と現実の経験をつなぐ手がかりがつかめないというのです。
田代と林も従来のやり方のように、辞める理由を問う方法には限界があると感じています。「仕事を続ける理由を、自分で育てる視点が弱いのではないかな」と田代が問いかけます。
そして林は「重要なのは、最初から適職を与えることではなく、今の仕事の中で成長や貢献を実感できる場づくりでは?」と続けます。
■「仕事を続ける」ための3つの条件
早期離職の背景には、「仕事が合わない」といった期待するキャリアとのギャップがあります。そのためリアリティショックと言われるようなことが起きて辞職してしまうのです。ここで重要になるのが、「自己決定理論(self-determination theory: SDT)」です。
この理論では人が仕事を主体的に続けるためには、「自律性」「有能感」「関係性」という三つの基本的欲求がみたされることが前提とみなされます。

たとえば、上司や同僚との日常の関係性が弱いと「相談してもよい」という感覚が薄くなります。また、すぐに上司がその場で「なぜ辞めるのか」と問いただすのも逆効果になる恐れがあります。
確かに辞める理由自体を理解することは大事ですが、それを本人がまだ確信がなく悩んでいる時に問うのは考えものです。というのも、その時に辞める理由となるマイナス要因だけが焦点化され、ますます辞職への「焦点化バイアス」が働くからです。
したがって、新人に「辞める理由」を問うよりも、まず「続ける理由」を部下と共に考えるようにすることを優先することが必要となります。
■悩んでいる人に「なぜ辞めるのか」と聞くリスク
部下が「辞めたい」と口にしたとき、上司は理由を詳しく聞きたくなります。しかしその問い方が、かえって離職意向を強めてしまう場合があります。

ここでは、具体的な事例をもとに、質問の方向が注意の向け方を変え、意思決定に影響するメカニズムを整理し、建設的な対話のあり方を考えます。
KEYWORD=選択的注意、リフレーミング
中堅企業で働く入社3年目の藤浪は、「辞めたい」という思いを抱えていましたが、その理由ははっきりしていませんでした。
そんな中、上司の山岡課長から「なぜ辞めたいのか」と問われたため、業務量や評価、人間関係など思いつく不満を並べ始めます。すると、話しているうちに辞めたい理由ばかりが強調され、気持ちは次第に離職へと傾いていきました。面談後、藤浪は退職を決意しかけます。
しかし後日、先輩の山下から「続けたい理由は何か」と問われると、成長意欲や職場への愛着といった別の側面が浮かび上がりました。
この問いの違いによって、藤浪は自分が否定的な側面に偏っていたことに気づき、判断を見直すきっかけを得ます。
■選択的注意と質問のフレーミング効果
この変化の背景にあるのが「選択的注意(selective attention)」です。人は膨大な情報の中から特定の側面に注意を向け、その結果として判断や感情が方向づけられます。
「なぜ辞めたいのか」と問われると、注意は否定的情報に集中し、その重みが過大に評価されやすくなります。理由を探す行為自体が都合のよい情報を選択し、既存の辞める態度を強化することがわかっているのです(Kunda,1990)。
また、離職面談に関する研究では、「辞めたい理由」を問う群では離職意向が上昇する一方、「続けられる条件」を問う群では意向が大きく低下することが報告されています(hom et al,2017)。
つまり、質問が注意の方向を変え、その後の意思決定に影響することを示しているのです。
他方、「どうすれば続けられるか」という問いは、改善可能性や肯定的資源に目を向けさせ、認知の再構成を促します。これは認知行動療法の認識の枠を転換する「リフレーミング」とも一致するアプローチです。
離職意向は単なる不満の強さだけでなく、仕事の意味づけや将来の見通しによっても左右されます。

したがって、相手が曖昧な意識の場合の面談では、原因追及よりも選択の幅を広げる問いを用いることが重要です。問いの設計そのものが、意思決定の質を左右するといえるでしょう。
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匠 英一(たくみ・えいいち)
日本ビジネス心理学会副会長、デジタルハリウッド大学(元)教授
1990年東大大学院教育学研究科を退学後、同年には東大の医学系研究者ら共にとベンチャーの(株)認知科学研究所を創設し、東大医学部公衆衛生研究室にてストレスと創造性の研究成果を事業化。それ以後は95年に通信機器メーカにて営業・事業開発の部長職に就き、アップル社やNEC、住友3M、NTTなど100社以上のコンサル・研修業に従事。20代の学生時代より教育改革のために私塾「エミール」設立、東進スクール研究所顧問、eラーニングの(株)デジタルナレッジ顧問や販売ソフト企業の非常勤取締役など歴任する。他に公的な業務としては、早稲田大学IT経営戦略研究所客員研究員、立正大学心理学部、医系大学の非常勤講師などを歴任。また、CRM協議会(初代事務局長)など15件の業界団体を自ら創設して新しいビジネスモデル創りを推進。現在は主に「ビジネス心理検定」の資格普及と、AI活用の思考法の教育・コンサル業に従事。著作には『サクッとわかる ビジネス教養 心理学』(新星出版社)、『ど素人でもわかる心理学の本』(翔泳社)、『ビジネス心理学』(経団連出版)など60冊ほど。TVでも「ナカイの窓」等でレギュラー出演・企画し、「しぐさ行動分析」の専門家で知られる。
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(日本ビジネス心理学会副会長、デジタルハリウッド大学(元)教授 匠 英一)
