昭和のプロ野球秘話

松永浩美が語る石嶺和彦とのエピソード 中編

(前編:松永浩美がバッティングを絶賛する阪急戦士 ケガと肝炎がなければ「球史に残るキャッチャーになっていた」>>)

 長らく阪急の主力として活躍した松永浩美氏に聞く、同期入団の石嶺和彦氏とのエピソード。その中編では、石嶺氏が打点王を獲得した1990年シーズンや、中日で打撃コーチを務めていた時の裏話、自身がスイッチヒッターへの転向を決意したきっかけなどについて語った。


落合氏(左)が中日の監督時代にコーチを務めた石嶺氏 photo by Kyodo News

【松永氏も打点王をアシスト】

――石嶺さんは半月板の故障を抱えながら、1989年から阪神移籍1年目となる1994年にかけて6年連続で全試合に出場。1990年には打点王を獲得しました。

松永浩美(以下:松永) 当時は外国人選手が多くの打撃タイトルを獲っていた時代ですから、そのなかで打点王を獲れたのは非常に価値があったと思います。確か、オレステス・デストラーデ(西武)と最後まで争っていましたよね。

――そうでしたね。ともに106打点でタイトルを分け合いました。

松永 そのシーズン終盤、川崎球場でのロッテ戦だったと思うんですが、ツーアウトで私に打順が回ってきたんです。「自分がアウトになって、石嶺に打席が回らずに試合が終わったら、打点王が厳しくなりそうだな」と考えながら打席に入った記憶があります。

 そこで、私は二塁打を打ったんですよ。ランナーがたまった状態で打順を回すことができ、石嶺は見事にタイムリーを放って打点をあげていました。彼が打点王を獲れたことについて本人とは特に話をしませんでしたが、チームメイトであり、同期の石嶺が獲ってくれたことはうれしかったですね。

――石嶺さんの打点王をアシストする形になったんですね。

松永 石嶺には、なんとか打点を稼いでほしいと思っていましたからね。あと、石嶺のことはひそかに尊敬していたんです。同学年の石嶺のすごさは高校時代から聞いていましたし、彼がいてくれたからこそ頑張れた部分も多いのです。

【真面目ゆえに大成できなかった部分も?】

――石嶺さんは長打力があって勝負強いバッターでした。走攻守の三拍子がそろっていた松永さんとはタイプが異なりますが、いい関係性を保つという意味ではよかったのでしょうか?

松永 大きかったと思います。同じタイプのバッターだったら毛嫌いしていたかもしれません。それぞれが違う色を持っていたことがよかったんじゃないですかね。ポジションも、自分が内野で石嶺が外野(またはDH)だったので競合することもなかったです。

 私が彼に一目置いていた部分は、決して音を上げないことです。プロ1年目、彼はキャッチャーだったこともあってキャンプでかなり厳しい練習をしていたのですが、同期の選手たちがギブアップするなか、彼は絶対に音を上げなかった。そこに関しては自分も似たタイプなので、「負けていられない」とライバル心が芽生えたんです。

――普段はどういう関係でしたか?

松永 プライベートでは食事に行くことはなく、ちょっと距離を置いたライバルという感覚でした。性格が違っていたのもよかったのかもしれません。ひと言で言えば、石嶺は大人(笑)。彼が私みたいにズバっとものを言う性格だったら、おそらくケンカになっていたはずです。

 あと、彼はお酒が大好きでした。一度、一緒に飲みに行ったことがあるのですが、飲んだら人が変わるんですよ(笑)。彼の地元の沖縄はお酒の強い人が多いじゃないですか。お酒が入ると饒舌になるんですけど、朝まで飲んでも平気でしたね。 

――そんな性格が、プレーに表れることもありましたか?

松永 石嶺は、もう少しくだけた性格だったらケガをしなかったかもしれません。真面目だと、どうしても無理をしてしまうことがありますから。私なんかは、よくも悪くも"抜く"ことを知っているんです。石嶺にもそういう部分があったら、キャッチャーとして歴代トップ3にも入れる選手になっていたと思いますよ。それくらい潜在能力が高かったです。

 半月板が悪くてキャッチャーを断念し、DHや外野で出場していましたが、やっぱりキャッチャーとして大成してほしかったです。もったいなかったですね......。石嶺はバッティングの技術が高かったですが、膝の状態がよければ、もっといい成績を残せたかもしれません。もともとインローを打つのがうまかったのが、悪化してからはインローが弱点になっていましたから。

――確かに、体をクルっと回転させて打っていた印象です。

松永 それほど体は大きくないですが、体の使い方がうまいんです。でんでん太鼓みたいに動かしていたイメージです。体をコマのように回転させ、腕の使い方もうまいからインコースをさばけますし、アウトコースもしっかり打てる。バッティングに関しては天性のものがありました。

【落合ドラゴンズのコーチ時代に吐露した悩み】

――2004年に落合博満さんが中日の監督に就任した時、石嶺さんは打撃コーチとして招聘され、2011年に落合さんが退任するまでコーチを務めました。石嶺さんのバッティング技術を、落合さんも高く評価していたことがうかがえます。

松永 高く評価していたと思いますよ。そうでなければ落合さんもコーチとして呼ばないでしょう。一度、石嶺がコーチをやっている時に偶然会ったことがあるんですが、「(頭が)パニクってる。何を教えていいのかわからなくなってきた」と胸の内を吐露したんです。私にしか言っていないんじゃないかな。

――同期であり、ともに主力として切磋琢磨してきた松永さんだからこそ、本音が出たのかもしれませんね。その時に何かアドバイスしたんですか?

松永 「教えなくていいんだよ」と言いました。私は、選手が聞きにきた時だけ教えればいいと思うんです。今はYouTubeなどで、いろいろな人が「スイングはこうすべき」「メジャーで主流のスイングはこれ」などと話していますが、型にハメすぎですよ。私は野球教室では、子どもたちに対して「打つために何が必要なのか」という話しかしていません。

 石嶺がどんな指導をしていたかはわかりませんが、彼には独特の感性があり、バッティングも特殊でしたからね。もしかしたら、自分の感覚を言葉にするのが難しかったのかもしれません。

――先ほど、石嶺さんに一目置いていたというお話がありましたが、常に意識する存在でしたか?

松永 意識していましたが、なんでなんでしょうね......。高校時代から名前を聞いていた、というのもすごく大きいと思います。沖縄(豊見城高)の石嶺の名が、北九州(小倉工業高)にいる自分のところまで届いていたくらいですから。(2年時に甲子園に出ていたとはいえ)九州大会で対戦したわけでもないのに、九州全域に伝わっていましたからね。

 私の子どもたちは水泳をしていて、フリー(自由形)も平泳ぎも鹿児島県内ではトップクラスなのですが、「名前が他県にも広まらない限り、大したことないぞ」と発破をかけることがあるんです。それは石嶺の影響です(笑)。

【松永氏がスイッチヒッターに転向した決め手】

――そんな石嶺さんに対して、負けられない気持ちがあったんでしょうか。

松永 その思いは強かったです。入団2年目の1979年オフに、住友平打撃コーチからスイッチヒッターへの転向をすすめられた時には、「これで石嶺に勝てるかもしれない」と思いました。住友コーチに言われたから転向を受け入れたわけではなく、石嶺の存在が大きかったんです。このことは、今回初めて話しましたよ。

――スイッチヒッター転向の直接的なきっかけになったんですね。

松永 もちろん、コーチから「左右両方で本塁打を打てる、メジャーにいるようなバッターを目指さないか?」と言われたことや、その話し合いも要因ではあります。ただ、決断に至った最大の要因は、「石嶺に勝ちたい」という思いだったんです。右打ちの打者としてプレーしていた時は、「このままでは勝てない。何かしらの特徴を出していきたい」と常々思っていました。自分にとって石嶺の存在は、それほど大きなものだったんです。

浜田哲男●取材・文 text by Hamada Tetsuo