ビル・ゲイツ氏や孫正義氏と対立、半導体やネットで「デジタル敗戦」…再起かけ技術者育成へ「もうひと勝負」
[検証デジタル ニッポンの苦境]パソコンOS編<3>
考え方の近さから「二卵性双生児」とまで言われた西和彦とビル・ゲイツ。
2人の関係を決定的に悪化させたのは、「半導体」を巡る路線対立だった。
西はパソコンの基幹部品である半導体が「ソフト技術者にとって使い勝手が悪い」と不満を抱き、マイクロソフトが自ら半導体を開発すべきだと訴えた。一方のゲイツは当時、マイクロソフトと同盟関係にあった米半導体大手インテルへの配慮もあり、自社で半導体を開発することに否定的だった。
半導体を巡ってこじれた関係が修復不能になり、西は1986年、マイクロソフトを去る。失意の西が自らが創業したアスキーで心血を注いだのが、半導体の開発だった。インテルを超える国産半導体を目指し、アスキーと三井物産で共同出資会社を設立、半導体開発に乗り出した。
だが、西はそこで「技術者」という壁にぶつかる。
「技術者の質、層の厚さが日本と米国では全く違った」。コンピューター科学が発達する米国企業では、博士号取得者が最先端の半導体を設計していたが、日本ではそうした専門知識が軽視されていた。「これでは日本は米国のまねしかできない。教育から見直さなければ」。西はそう痛感したという。
◇
ゲイツも「天才」として名高かったが、パソコン革命を先導した西も「天才」ともてはやされ、当時、流行語だった「新人類」の代表格とされた。
その西と生まれた年が1年しか違わない「新人類」がいた。現ソフトバンクグループ社長の孫正義だ。孫は当時、パソコンソフトの流通大手・日本ソフトバンクのトップとして、業界で急速に存在感を高めつつあった。
パソコン業界では「作る天才」と呼ばれる西に対し、孫は「売る神童」と評され、2人はお互いをライバルとして強く意識していた。
その2人が正面からぶつかり合ったのが、83年、西が打ち出したパソコンの世界共通規格「MSX」だった。2人の人生を描いた書籍「西和彦の閃(ひらめ)き 孫正義のバネ」などによると、孫は「ソフト会社から利用料を取るのはおかしい」とMSX構想に強く反対。独自の統一規格の策定に動き出し、MSXに対抗する姿勢を鮮明にした。
「天才」と「神童」の対立に慌てたパソコンメーカー幹部が事態の収拾に乗り出し、2人はホテルオークラの一室で話し合う。西が利用料などで譲歩し、孫が対抗規格を取り下げることで対立は沈静化する。
一方で、この騒動は2人の若手経営者がパソコン業界を動かしていることを、世間に強く印象づけた。

西と孫はその後、曲折がありながらも、対照的な道を歩むことになる。
西は90年代、アスキーが経営難に陥ったことで、半導体の開発を断念。肝いりだったインターネット事業も撤退に追い込まれ、次第にデジタル産業の表舞台から遠ざかっていった。
一方、95年にヤフーを設立した孫はインターネット革命の波に乗り、IT業界の旗手として存在感を増していく。米大統領のドナルド・トランプらも一目置く世界的なビジネスマンになった。
西は孫への思いについて「車を運転していたら後ろからものすごいスピードでスポーツカーが来て、あっという間に追い抜いていったという感じ。事故を起こしたら大変だね、としか思わない」と語る。「お金を稼ぐのが好きな彼と、技術者堅気の僕は違う」
パソコン時代の寵児(ちょうじ)だった西は現在70歳。「やる気は満々だが、もう若くはない」という西が今、「もうひと勝負かけたい」と情熱を燃やすのが技術者の育成だ。私財を投じ、デジタルや半導体の技術者を育成する日本先端工科大学(仮称)の設立に向けた準備を神奈川県小田原市で進める。
<当時、日本企業の実力は間違いなく世界のトップレベルにありました。グーグルもアマゾンも生まれる前、日本は世界に名だたるIT先進国だったのです>――。学校案内の一節にはそうある。そして、こう続ける。<その後、日本企業は半導体でもコンピューターでもインターネットの分野でも、ずるずると存在感を失っていきました>
だが、西はまだ「デジタル敗戦」からの再起を諦めていない。「僕が大学時代から世界初のソフトやハードの開発に情熱を燃やしたように、やる気をうまく育めば、世界で活躍できる人材はたくさんいる」(敬称略、小林泰明)

