『スーパーガール』© & TM DC © 2026 WBEI

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 DCユニバース最新作『スーパーガール』が日米同時公開を迎えた。ジェームズ・ガン、ピーター・サフランが統括する新たな体制「DCスタジオ」が始動し、その第1弾映画として、本作の前に公開された『スーパーマン』(2025年)は、非常に高い評価を得ていた。今回公開されたのは、その劇中において鮮烈な印象を残していた、ミリー・オールコック演じるスーパーガールを主人公にした一作だ。

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 地球で愛されて育った従兄のスーパーマンことカル=エル(デヴィッド・コレンスウェット)とは対照的に、過酷な運命を生き延びてきたカーラ・ゾー=エル(ミリー・オールコック)。本作は、正しい女性ヒーロー像の枠組みを軽く揺るがしながら、どこか乾いた手触りで進行していく。ここでは、この新たなヒーロー映画が真に描こうとしたものが何かを考えながら、作品の出来についても検証していきたい。

 本作のベースとなっているのは、2021年から発表されたコミック『スーパーガール:ウーマン・オブ・トゥモロー』である。この原作は、長年培われてきたスーパーマン神話を見直しながら、同時に、古典的なウェスタン映画と、壮大なスペースオペラとを融合させた内容として話題になった作品だった。

 ここでまず注目したいのは、スーパーマンとカーラとの間の生い立ちの違いである。赤ん坊の頃に滅びゆくクリプトン星を離れ、地球のケント夫妻のもとで愛されて育ったスーパーマンとは異なり、カーラは多感な時期まで故郷の地で生き、悲劇を目撃して深く傷ついていたのである。その記憶と打ち沈んだ感情こそが、彼女の物語には暗く横たわっているのである。

 映画版のカーラは、23歳の誕生日を迎えるとき、スーパーパワーを無効化してしまう赤い太陽の光が降り注ぐ辺境の惑星に身を置いていた。そこで彼女は、ただ酒に溺れ、虚無感に苛まれている。さまざまな試練はありつつも、基本的には地球の人々から希望の象徴と見られている従兄スーパーマンとは対照的に、彼女は存在意義を見失ってしまっているのだ。

 そんな彼女がたどっていくのは、名作西部劇『勇気ある追跡』(1969年)に似た物語である。父親を殺された少女が、大酒飲みの連邦保安官(ジョン・ウェイン)を用心棒に雇い、仇討ちのために荒野を追跡する……あの古典的な物語の構造が、おそらくは本作の物語の基本的な部分を占めている。

 酒に酔って荒野を彷徨う、ふてぶてしい西部劇の男のような特徴を持っているカーラは、もちろん正統派のヒーローとは一線を画する存在である。世界、宇宙じゅうで、理不尽な暴力が横行しているのに、何もしない。『アイ,トーニャ 史上最大のスキャンダル』(2017年)や、『クルエラ』(2021年)などの作品で、不完全ながら芯の強い女性像を描いてきたクレイグ・ギレスピー監督は、ここでもカーラを不安定で揺れるヒーローとして表現し、生々しい人間性を立ち上がらせているのだ。

 家族を無惨に殺された少女にですら協力を渋る彼女を動かしたのは、毒矢を受けた最愛の相棒、スーパードッグのクリプトを救いたいというパーソナルな感情からであった。この個人的な思いから始まる少女ルーシー(イヴ・リドリー)と共に向かう追跡の旅は、いつしか“理不尽に捕えられた女性たちの救出”という、パブリックな戦いと合流することになる。

 このように自分自身の問題を解決しようと戦う過程において、ルーシーや女性たちなど他者が受ける抑圧を目撃するカーラ。彼女のなかで、クリプトン人としての辛い記憶と、目の前の弱者たちの痛みが怒りとして結びついていく。なかなか積極性を見せない主人公であるだけに、その回路が繋がってからのアクションシーンの数々には、“アツい”ものがある。

 こうしたカーラの変化というのは、かつて社会運動に興味がなく背を向けていた一人の女性が、個人的な理由をきっかけに社会問題と対峙することで、公共的な活動へとシフトしていくプロセスそのものだ。力のある者が社会に対して責任を果たすことと、個人としての内面的な確立が美しく合致するこの瞬間こそが、本作が到達した最大の美点であるといえよう。

 だが一方で、その立派なテーマを乗せるだけの器が、この映画にあるのかは、疑問に感じられる部分もある。見るからに多くがスタジオ撮影の連続で構成されていると考えられる本作は、明らかにスケール感も、世界観の奥行きも弱い。さまざまな宇宙の種族が登場しながらも、それらの内面や文化、生活様式の描写が希薄で、設定が練られていないのだ。壮大な世界を登場人物たちが冒険するのでなく、登場人物たちを見せるための“書き割り”として、最低限それらしい世界が描かれているに過ぎないと感じられる。

 ジョージ・ルーカスやスティーヴン・スピルバーグ監督の作品では、こうした弱みを感じることが少ない。これは、どれだけSFやファンタジーのジャンルにおける“ワールドビルディング”(世界の構築)に、製作側の興味が向いているかという点が反映されているのである。そしてこの弱点は、ジェームズ・ガン監督のMCU『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』シリーズにも共通していた部分だといえる。

 本作『スーパーガール』は、西部劇の構造も借りながら、一人の傷ついた女性が私的な境界線を越えて、社会的な連帯をする主体へと目覚めていくプロセスを描くという、テーマ的な強度を十分に持っている。しかしその一方で、せっかくSF超大作として潤沢な資金を得ながら、創造性の部分の弱さが目立っているのも確かなのである。これなら、ガン監督の『スーパーマン』のように、生きた社会問題をそのまま利用できるよう、地球上を舞台にした脚本にした方が良かったのではないだろうか。

 とはいえ、いかにもな男性目線の魅力から外れ、ときに吐瀉物を撒き散らしながらセックスアピールを拒否し、超パワーで敵を薙ぎ倒していく姿は、一見の価値があることは間違いない。一人の女性の剥き出しの感情と、ヒーローが体現するべき公共的な活動をつなげたカタルシスは、作品に強い芯を与えている。その点は、『スーパーマン』に共通するものがあるといえるだろう。今後のシリーズによって明らかになっていくだろうが、DCの新たなジェームズ・ガン体制とは、このようにヒーロー作品としてテーマの筋道を通していくという部分が、際立った特徴になるのかもしれない。

(文=小野寺系(k.onodera))