紫式部ゆかりの京都・廬山寺(写真: sonda0112 / PIXTA)

NHK大河ドラマ「光る君へ」がスタートして、平安時代にスポットライトがあたっている。世界最古の長編物語の一つである『源氏物語』の作者として知られる、紫式部。誰もがその名を知りながらも、どんな人生を送ったかは意外と知られていない。紫式部が『源氏物語』を書くきっかけをつくったのが、藤原道長である。紫式部と藤原道長、そして二人を取り巻く人間関係はどのようなものだったのか。平安時代を生きる人々の暮らしや価値観なども合わせて、この連載で解説を行っていきたい。連載第38回は、紫式部の娘である大弐三位(だいにのさんみ)の生涯を解説する。

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紫式部と藤原宣孝の子として誕生

紫式部の娘・大弐三位(だいにのさんみ)がどんな生涯を送ったのかは、それほどよく知られていない。

のちに大弐三位と呼ばれる藤原賢子が生まれたのは、長保元(999)年か、あるいは、その翌年とされている。いずれにしても、父親の記憶はほとんどなかったことだろう。父の藤原宣孝は長保3(1001)年に病でこの世を去っている。

結婚してわずか2年半で夫と死別した母の式部は、呆然としたらしい。その頃の心情として『紫式部日記』にこんなふうに綴っている。

「心に思うのは『いったいこれからどうなってしまうのだろう』と、そのことばかり。将来の心細さはどうしようもなかった」

(いかにやいかにとばかり、行く末の心細さはやるかたなきもの)

せめて気晴らしにと式部は、物語の創作を始めたようだ。これが『源氏物語』の誕生につながったと考えられる。

そんなとき、式部の人生に転機が訪れた。寛弘2(1005)年、あるいは、寛弘3(1006)年の年末に、一条天皇の中宮・彰子のもとに女房として仕えることになったのだ。式部が30代前半の頃のことである。

『紫式部日記』を読めば、式部が主人である彰子や道長、そして一条天皇に尊敬の念を抱きながら、宮仕えを日々行っていたことがよくわかる。

だが、『紫式部日記』の後半部は「女房とはいかにあるべきか」が説かれており、「日記」というより「指南書」の性格が強くなってくる。

そのことから、おそらく後半は「これから宮仕えをする特定の人物」に向けて書かれたのではないか、とも言われている。それは、娘の賢子(大弐三位)である。

式部が出仕した頃、まだ6歳前後だった幼い娘の賢子が、どのように過ごしていたのか。その足取りはよくわかっていない。ただ、『紫式部日記』が書かれたのは、賢子が10歳を超えた頃のこと。タイミング的にも、将来を見据えた母が、娘のために書いた可能性はありそうだ。

賢子が14〜15歳頃に母の式部は他界(式部の没年については諸説あり)。長和6(1017)年、賢子は母の跡を継ぐように、彰子のもとに、女房として出仕する。式部の存命中から、賢子は彰子のもとに出入りしていた。彰子としても、よく知る式部の娘ならば、と考えたのだろう。

だが、実際に賢子が出仕すると、彰子は「さすが式部の娘!」と感心したり、「本当に式部の娘なの……?」と戸惑ったりと、両極端の感想を日々持ったのではないだろうか。

賢子は母の式部と同じく和歌の才を発揮しながら、その性格は引っ込み思案だった母とは異なり、明るく情熱的な女性だった。

貴公子たちの心をつかんだ賢子の才覚

のちに「大弐三位」として知られる、式部の娘・賢子は、ほとばしるパッションを隠すことなく、恋愛経験も豊富だった。


紫式部の歌碑(写真: sonda0112 / PIXTA)

藤原公任の息子・権中納言の藤原定頼から、こんな歌が贈られたこともある。

「こぬ人に よそへて見つる 梅の花 散りなむのちの 慰めぞなき」

(いつまで待っても来ない人を思って梅を眺めていました。花が散ったあとには慰めとするものがありません)

賢子を思う定頼の切ない思いが伝わってくる。だが、当人からすれば、とても素直には受け取れなかったようだ。賢子はこんな歌で返している。

「春ごとに 心をしむる 花の枝に たがなほざりの 袖かふれつる」

意味としては「春が来るたびに私が深く思う梅の枝に、どなたか気まぐれな袖を触れさせて、その移り香を移されたのでしょう」。

どうも定頼は浮気者だったらしい。「会わない原因はあなたにあるのに、よくそんなことが言えたものね」と、相手をたしなめているのだ。

そうかと思えば、賢子は、自分のもとから足が遠のいていた定頼に対して、こんな歌も菊の花とともに贈っている。

「つらからむ 方こそあらめ 君ならで 誰にか見せむ 白菊の花」

あなたは私に薄情なところがありますが、それでもあなた以外の誰に見せましょうか、この白菊の花を――。

そう言いながらも、賢子は、定頼の後任として蔵人頭になった源朝任(あさとう)とも恋愛関係になる。また、ある男性には、こんな歌を贈っている。

「恋しさの 憂きにまぎるる 物ならば またふたたびと 君を見ましや」

(恋しさが、些事に気が散って紛れるくらいのものならば、再びあなたにお目にかかるでしょうか。紛れなどしないから、またお逢いしたいのです)

『後拾遺和歌集』に収録された歌だ。詞書に「堀川右大臣のもとにつかはしける」とあることから、相手は道長の次男で、源明子を母に持つ藤原頼宗だということがわかる。

母譲りの巧みな和歌を武器に、賢子は有望な貴公子たちの心を次から次へとつかんでいった。

賢子が親王の乳母に選ばれたワケ

そうして上流貴族たちに愛されながら、賢子は万寿2(1025)年、道長の兄・道兼の息子である藤原兼隆との間に娘を産んでいる。身分の差から、いわゆる「結婚」とは呼べないものだったとする見解もあるが、出産したことは確からしい。『栄華物語』には、次のように書かれている。

「大宮(彰子)の御方の、紫式部が女の越後弁(賢子)、左衛門督(藤原兼隆)の御子生みたる、それぞ仕うまつりける」

すると、同年に東宮・敦良親王に第1皇子にあたる親仁親王も誕生。生んだ母親は道長の娘で彰子の妹、嬉子だったが、出産前に赤裳瘡を患い、2日後に死亡。さらに、乳母に決まっていた女房までもが赤裳瘡によって辞退したため、賢子が乳母の1人に選ばれることとなった。

選出された理由は「母の式部が有名だったから」とも「兼隆との子を生んだばかりだったから」とも言われている。おそらくその両方だろう。

賢子が最後に選んだ相手

そんな男性遍歴を重ねたのち、賢子は長暦元(1037)年頃に高階成章の妻となる。そして、親仁親王が即位して後冷泉天皇となると、賢子には三位典侍(さんみのすけ)の官位が与えられた。下級貴族の娘としては、これ以上ない位まで上り詰めたといえるだろう。

その後、後冷泉天皇の治世において、夫の成章は受領として最高の大宰大弐となり、その翌年には従三位を与えられている。夫の官名と自身の官位から、賢子は「大弐三位」と呼ばれるようになった。

男性遍歴の果てに賢子が結婚した成章は、地方官を歴任していた。ひたすら蓄財に励んだことから「欲大弐」(『尊卑分脈』より)と陰口を言われていたという。

そんな夫だったから、成章が67歳頃で死去したのちに、十分な遺産を手にしたと思われる。安心のシニアライフを満喫しながら、賢子は80歳を超える長寿をまっとうした。
 
【参考文献】
山本利達校注『新潮日本古典集成〈新装版〉 紫式部日記 紫式部集』(新潮社)
『藤原道長「御堂関白記」全現代語訳』(倉本一宏訳、講談社学術文庫)
『藤原行成「権記」全現代語訳』(倉本一宏訳、講談社学術文庫)
倉本一宏編『現代語訳 小右記』(吉川弘文館)
源顕兼編、伊東玉美訳『古事談』 (ちくま学芸文庫)
桑原博史解説『新潮日本古典集成〈新装版〉 無名草子』 (新潮社)
今井源衛『紫式部』(吉川弘文館)
倉本一宏『紫式部と藤原道長』(講談社現代新書)
関幸彦『藤原道長と紫式部 「貴族道」と「女房」の平安王朝』 (朝日新書)
繁田信一『殴り合う貴族たち』(柏書房)
倉本一宏『藤原伊周・隆家』(ミネルヴァ書房)
真山知幸『偉人名言迷言事典』(笠間書院)

(真山 知幸 : 著述家)