精神科医を目指していたレトロプリンさんが、進路を方向転換した理由とは?※写真はイメージです(写真: マハロ / PIXTA)

浪人という選択を取る人が20年前と比べて1/2になっている現在。「浪人してでもこういう大学に行きたい」という人が減っている中で、浪人はどう人を変えるのでしょうか?また、浪人したことによってどんなことが起こるのでしょうか? 自身も9年の浪人生活を経て早稲田大学に合格した経験のある濱井正吾氏が、いろんな浪人経験者にインタビューをし、その道を選んでよかったことや頑張れた理由などを追求していきます。

今回は、九州の最難関高校から10浪して東京農工大学地域生態システム学科に合格、そこから30代で私大の獣医学部に合格し、現在も獣医になるために大学に通うレトロプリンさん(仮名)に話を伺いました。

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難関高校に進学も、人間関係で苦悩


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人生は挫折の連続です。

今回、お話を伺ったレトロプリンさん(仮名)は、成績優秀だった幼少期を経て、九州の最難関高校に合格し、エリートコースを歩んでいました。

しかし、そこで人間関係に苦労して精神科に通うようになります。「人の気持ちをわかり、手助けができるような精神科医になりたい」と思った彼でしたが、なんと4浪のときにはかかりつけの医師に夢を諦めることを勧められ、さらなる絶望に陥ります。

そんな彼の人生が好転したのは、意外なことがきっかけでした。今回は彼の10年に及ぶ長い人生の暗闇と、その突破口について深掘りします。

レトロプリンさんは福岡に生まれ育ちました。小さいころから知的好奇心のある子どもだったようで、小学校で『ダレン・シャン』や『アルジャーノンに花束を』を読んでいたそうです。

「小学校・中学校のときは静かな子どもだったので、ほぼ一人で過ごしていた気がします。中学に上がってからはずっと勉強をしていて、中学2年までに中3までの内容を終わらせる気概で、勉強していました」

塾にも通いながら受験勉強をし続けた彼は、中学生活を勉強に捧げたこともあり、高校受験でギリギリ九州の最難関高校に合格し、進学します。順風満帆の人生かと思われますが、高校進学以降、彼の人生は大きく変わり始めます。

「高校に入ってから、中学までずっとよかった成績がどんどん下位のほうになりました。2年生のころには170〜180人のうち、下位1割に落ちてしまいました」

彼の成績が中学時代より悪くなった理由として、学校のレベルが上がったこともあるようですが、人間関係に悩んだことが大きかったそうです。

「自分は人に嫌われていると思うことが多くなりました。日中、相手のことについて『なんでこの人は自分を嫌いなんだろう?』と思いを巡らすことが多く、つらい思いをしていました」

高2・高3では友達ができるようになり、思いを巡らすことは減ったそうですが、高1のときに悩んだことがきっかけで、精神科医になりたいと彼は強く思い始めます。

「もともと自分は小さい頃から頑固でこだわりが強いところがあったので、それで人間関係のいざこざを起こしていた部分はあったと思います。だから、自分の(性格が)悪いとか、自分を変えたいという思いが強くなり始め、人の気持ちがわかり、手助けができるような精神科医になりたいと思ったのです」

ドクターストップで現役での受験を断念

しかし、高校卒業間際には、受験なども加わった複合的な要因でメンタルを崩し始めていたようです。かかりつけの精神科医の支えもあり、なんとか学校に通って卒業することができましたが、無理して受けたセンター試験の点数は、5割を少し超える程度。

センター試験以降の受験も「大学を受けられる精神状態じゃない」と判断した医師によりドクターストップがかかり、現役での受験は断念しました。

現役での大学は受験せずに終えたレトロプリンさん。それでも、精神科医になるという夢のためには医学部に行く必要があったため、「やむをえず」浪人を決断します。

浪人を始めてからのレトロプリンさんは精神科医になるための勉強をしていたものの、さらに精神面を悪化させてしまい、彼自身も精神科に定期的に通院するようになりました。

彼は自身の状態との兼ね合いもあり、実家で安静にして無理をしないように勉強を続けていました。試験を何も受けず、「ずっと精神的にどんよりした状態が続いた」数年間を、彼はこう振り返ります。

「じっくり療養していました。よく公園をぼーっと歩いていましたし、たまに父親に誘ってもらい、気晴らしにキャッチボールをしてもらっていました。思えば、親はとても気を遣ってくれていましたね。映画作品の『余命10年』のように自分の息子のことを怖くて触れずそっとしておく感じでした」

「精神科医に向いていない」の一言

自分自身にも焦りやプレッシャーもあったそうですが、さらに大きく精神的に落ち込む挫折が4浪目に訪れます。

「高校を出てからも定期的にカウンセリングに行っていたのですが、この年、かかりつけの精神科医に『君は精神科医に向いていないよ』と言われたんです。私は『敏感で人の機微に気がつくために、一歩離れて冷静に患者さんを診ることができない』とのことで、『鈍感な人でなければ“人間”相手の精神科医は難しい』とアドバイスをいただきました。それで目標を見失って、前向きに生きる意欲がなくなりました」

「最も精神的につらかったのがこの時期でした」と彼は振り返ります。

しかし、そうした鬱屈した日々から立ち直る出来事も5浪目に起こります。絶望のまっただ中にいる彼を救ったのは、実家の犬でした。


レトロプリンさんが変わるきっかけになったチワワとの出会い※写真はイメージです(写真: アオサン / PIXTA)

「5浪目の年に16年飼っていた実家のチワワが亡くなったあと、新しいチワワを飼うことになったのですが、この子が不安行動を起こす性質があったんです。

僕はその子と同じ部屋で生活していたのですが、親が僕を呼んだり、インターホンが鳴ったりしたら、僕が部屋からいなくなることがわかっているからパニックになって吠えるんです。まるで部屋に自分だけにしないで、置いていかないでと言うかのように。

だから僕は何としてもかわいく愛しいこの子のために生きたいと思ったんです。以前、敏感で“人間”の精神科医には向いていないと言われましたが、“動物”の精神科医なら、むしろ自分のような人間には向いているんじゃないかと思ったので、獣医になりたいと思い受験勉強を開始しました

人生に思い悩み、絶望した彼はようやく希望を抱いたこの年から、センター試験を受け出すようになります。5浪目こそ、現役とほぼ変わらない点数だったものの、毎年コツコツ勉強を続けた彼は、ジワジワと成績を上げていきました。

「5浪〜9浪目にかけては予備校に通ってはいたものの、体調との兼ね合いでほとんど行けず、自宅で浪人していました。毎年成績が上がっていき、9浪目には7割以上を取れるようになってきました。

とはいえ、この5年間は毎年前期試験で地方の獣医学部を受け続けてきたのですが、なかなか合格できず……。9浪目に親に『大学に一度受かったほうがいい』と言われたので、地方の国公立の農学部を後期試験で受けて、はじめて合格通知を手にしました」

ついに掴んだ合格だが、入学を辞退

この合格で気分をよくしたレトロプリンさんは、合格した国公立大学に進学しようとも考えますが、悩んだすえに入学を辞退します。

「農学部を受けたのは、勉強をするうちに樹木の分野に関して興味を持ったからです。動物行動分野以外では唯一、自発的に勉強したいと思える学問でした。だから、この大学で勉強しようかとも思い悩んだのですが、もしかしたら樹木も動物行動もどちらも勉強できる大学があるのではないかと思ってネットで検索したら、東京農工大学の地域生態システム学科が引っかかって、どちらも勉強することができると知ったのです

より深く調べていくと、東京農工大学で教鞭を執られている方の中に日本で唯一、アメリカで『米国獣医動物行動学専門医』という資格を取られた入交眞巳(いりまじり まみ)先生という方がいらっしゃいました。

そのとき、私はアメリカで最先端の獣医行動学を学んでこられた入交先生のもとでどうしても勉強させてもらいたいと思ったので、入学を辞退し、来年度の獣医学部の受験もいったん諦め、東京農工大を目指すことにしました。獣医になるより先に、専門家のもとで学ぶことで、自分もその分野の専門的な知識を身につけるほうが優先順位が高いと考えたのです

レトロプリンさんが自身の将来の目標として目指していたのは『獣医行動診療科認定医』。これは「行動診療を通して動物と飼い主の幸福増進に貢献するとともに、獣医動物行動学分野の発展に寄与し、わが国における同分野の啓発と普及に貢献するための努力を惜しまない獣医師」のことを指す、と熱心に語ってくれました。

こうして、自分が獣医学部に入るよりもまず、専門家に会ってその人のもとで学び、自分も獣医行動診療の専門的知識を得てから、もう一度獣医学部に入り直すという一本の線が、彼の中でできたのです。

国公立大学の入学辞退を決めたレトロプリンさんは、精神面がだいぶ快方に向かっていたこともあり、ついに大きな勝負をかけます。彼は10浪目に、河合塾の九大医進アドバンストコースに通い、本格的に勉強を開始します。

この1年にかけていた彼は、今までジワジワと成績を伸ばしつつも成績が伸びきらなかった理由を「分析の甘さ」と考え、振り返ることにしました。

「1年が始まる3月に、5年間受け続けてきた模試をひたすら分析しました。すると、毎回数学で同じ分野を間違えていることに気づけたんです。だから、基礎を身につけなければならないと考えて、3月から6月にかけて、数学の黄チャートをひたすら反復して、すべて終わらせました」

今までもすでに数学の偏差値は65程度あったそうですが、この1年に懸ける彼の熱量はすさまじいものがありました。「精神的に落ち込まないように筋トレもしながら、朝から晩まで予備校にこもって勉強を重ねていた」彼のこの1年の様子を見て、長い浪人生活に疲れていた彼の両親も、少し安心したようです。

「朝起きたら授業行って復習して、18〜19時くらいまで勉強してから帰宅し、料理を作って、風呂を洗い、洗濯や掃除や犬の世話なども必要なときには行い、20時から復習をして、24時には寝るようにしていました。

親は自分が東京で1人暮らしができるか心配していたので、勉強をしていない時間も『心配いらないな』と思ってもらえるように動いていました。なんとか自分の力で人生を前向きに生きようと思えた1年間でした」

東京農工大についに合格をはたす

東京農工大の模試の判定はC〜B判定が多く、A判定は取れませんでしたが、彼は確かな手応えをつかんでいたそうです。

センター試験本番では7割程度と失敗したそうですが、2次試験対策をバッチリしていた彼は自信を持って出願し、見事に東京農工大に合格しました。

「試験が終わってすぐ、受かったなと思いました。この1年に懸けてきたので、戦略通り受かって安堵しました」

こうして10年にも及んだ浪人生活を終わらせたレトロプリンさん。彼に浪人をしてよかったことを聞いてみると、「人生を俯瞰して見られるようになった」、頑張れた理由については「ポジティブだったから」と答えてくれました。

「体調を崩し、長い間実家にいたことで、本当に自分の好きなことや、したいことを模索し、見つけることができました。自分は小さい頃から頑固でこだわりが強い人間でしたが、自分はやればできるんだという思いが心のどこかにいつもあったので、周囲にどう思われても『自分はできるんだ!』って思っていました」

東京農工大に入ってからのレトロプリンさんは、願い通り、樹木の勉強をしながら、動物行動治療の専門医である入交先生のもとで学ぶことができました。

1年生からパピークラス(子犬のためのしつけ教室)でアルバイトをしながら、先生のもとで動物の行動診療に関する知見を深めていきました。学び続ける中で4年生へと進級した彼は、当初の目的であった行動診療科の獣医になるために入学試験を受け、見事に私大の獣医学部の合格を勝ち取りました。

「先生にはとても親身になって話を聞いていただき、実家の犬の症例の相談をしたり、先生の担当する『動物行動治療学』の授業を取って勉強させていただきました。その経験で十分な知識を得ることができたので、ようやく自分が動物を救うためのスタートラインに立てたと思います。

最初に浪人を始めてから、目標を叶えるのに20年近くかかりました。でも、自分には好きなことを追求しなければ、どうあがいても人生はうまくいかなかっただろうなと、浪人の日々があったからこそ気づけました。浪人を通して、明確に生き方が変わったと思います。

10年も大学に入るまで待ってくれて、さらにその大学を卒業してから獣医学部に入るという選択ができるのも、自分が恵まれた家庭に生まれたからだと自覚しており、自分を支えてくれた両親や、お世話になったみなさんに感謝したいです。

バカ息子になりたくないと思っているので、これから立派な獣医になって、親や周囲の方々に与えてもらったものを少しでも還元していきたいと思います」

獣医行動診療科認定医を目指す

私大の獣医学部で学ぶレトロプリンさん。最後に、これからの自身の目標について語っていただきました。

「自分はこれから、まだ日本に少ない獣医行動診療科認定医を増やすための手助けをしたいと考えています。問題行動が出たら、(動物を)叩けばいいだろうと思っている先生もまだ少なくないので、世間に『動物の問題行動に対する適切な理解』を推進できるよう、立派な獣医行動診療科認定医になるために頑張ります」

10年の浪人を経て、ようやく夢へのスタートラインにたどり着いた彼の生き生きとした表情から、どんなに長く大きな挫折も、前向きに捉えることができれば、最終的には1本の線で繋がるのだということを学ばせてもらいました。

レトロプリンさんの浪人生活の教訓:長い挫折は、自分の生き方を見つけるための充電期間になる

(濱井 正吾 : 教育系ライター)