7歳で嫁いだ千姫は、秀頼との関係は良好でした(画像:NHK大河ドラマ『どうする家康』公式サイト)

NHK大河ドラマ『どうする家康』第43回「関ヶ原の戦い」では、15万人とも言われる兵が関ヶ原で激突し、勝利した家康の苦悩の表情と敗れた三成の言葉が重く響きました。第44回「徳川幕府誕生」では家康が征夷大将軍になりますが、茶々(淀の方)とその息子・秀頼に、ある動きが。この秀頼に嫁いだ千姫について『ビジネス小説 もしも彼女が関ヶ原を戦ったら』の著者・眞邊明人氏が解説します。

千姫は、1597年に徳川秀忠と正室・お江の長女として生まれました。
お江の母は信長の妹・お市の方で、姉は豊臣秀吉の側室であり秀頼の母である、淀の方です。

お江は、まず織田信雄の家臣で信雄の従兄弟でもある佐治一成に嫁ぎます。この婚姻は、お江の継父・柴田勝家が母・お市の方とともに自害したあとに決まったものでした。信雄を取り込みたかった秀吉の政略的意図とも、信雄自身が望んだこととも言われますが、信雄が秀吉と対立した後にお江が一成と離縁されている事実を見ると、秀吉の意向だった可能性が高そうです。

一成と離縁後、お江は、秀吉の甥である羽柴秀勝のもとに嫁がされました。同時期に姉の茶々(淀の方)は秀吉の側室に、妹のお初は京極高次に嫁いでおり、お市の方が残した三姉妹は秀吉の思いのままになっていたことが窺えます。

千姫の母・江の3人目の夫は秀忠

しかし、お江の2人目の夫となった秀勝は、朝鮮出兵の在陣中に病死してしまいました。それから3年後の1595年、お江は秀吉の命により、徳川家康の後継者・秀忠と3度目の婚姻をします。

秀吉にとっての家康は政権のナンバー2だったため、この婚姻には徳川家との結びつきを強める狙いがあったようです。お江は秀忠より6歳年上で、さらには3度目の婚姻ということで家康も複雑な気持ちだったでしょう。
しかし天下人・秀吉に逆らうことはできず、了承しました。ただ、夫婦仲は良かったようで、千姫を筆頭に家光、忠長など2男5女に恵まれます。

死期が近づいた秀吉は、豊臣政権の継続のため、家康に千姫と秀頼の婚姻を命じました。秀吉としては、千姫と秀頼の間に男子が生まれれば、豊臣家と徳川家の血を継ぐ者が天下を治めることになり、家康も秀頼に忠誠を尽くしてくれるだろうとの考えであったと思われます。

この秀吉の命は1603年に実現し、千姫は7歳の若さで大坂城へ輿入れしました。この年、家康は征夷大将軍の座についており、名実ともに天下人に。にもかかわらず人質とも取れる千姫の輿入れを行ったのは、秀頼の母と千姫の母は姉妹でもあり、この時点では豊臣家とは融和的な方針だったのではないかと思われます。

千姫と秀頼の仲は良かったようで、秀頼が千姫の髪を整えるのを侍女が見ていたという話もあるようです。

秀吉の野望はあえなく瓦解

しかし徳川家と豊臣家の仲は、千姫と秀頼のようにうまくはいきませんでした。家康としては、かつて秀吉が主筋であった織田家を関白という権威によって従え、政権を交代したときのように、征夷大将軍という権威によって政権交代を豊臣家に理解させるつもりだったようですが、淀の方はそれを受け入れませんでした。

秀吉の築いた天下の名城・大坂城が、淀の方に過大な自信を与えたのかもしれません。現実には豊臣家に馳せ参じる大名はなく、結果的に真田信繁、後藤又兵衛らの浪人を大量に召し抱えることで軍事的にも徳川家に対抗しようとします。この結果、1614年の大坂冬の陣が勃発しました。


茶々(淀の方)は家康と対立する姿勢を崩しませんでした(画像:NHK大河ドラマ『どうする家康』公式サイト)

この戦いは予想を裏切り、豊臣家が善戦します。そのことが家康に豊臣家の殲滅を決意させました。そして大坂夏の陣で豊臣家は滅びることになるのですが、千姫は大坂城に残ったままでした。

家康は、千姫の救出を命じます。千姫は坂崎直盛によって救い出されます。このとき千姫は、秀頼と淀の方の助命を家康に直訴しましたが、これは受け入れられませんでした。さらに秀頼と側室の間に生まれた男子と女子についても助命嘆願を行います。

男子は処刑されましたが、女子については、千姫は一歩も引かず、家康も根負けして助命することに。この女子は千姫の養女となって東慶寺に預けられ、天秀尼と名乗り37歳で死去しました。千姫は天秀尼の菩提を弔い続けたと言われています。


偉丈夫だったと言われる秀頼のもとには人が集まりました(画像:NHK大河ドラマ『どうする家康』公式サイト)

秀頼が処刑された翌年に再婚した千姫

大坂冬の陣の翌年、千姫は本多忠勝の孫にあたる本多忠刻と再婚しました。忠刻は、母が織田信長の孫である熊姫であり、祖父・忠勝の勇猛さと織田家の血筋が持つ美しさを兼ね備えた若者でした。

祖父である家康だけでなく父・秀忠もこよなく千姫を愛しており、忠刻は家臣ではありますが、傷ついた千姫を癒やしてくれると見込んだのでしょう。

また、これ以上、千姫を政争に巻き込みたくないという親心も見え隠れします。ともに織田家の血を継ぐふたりは、まわりがため息をつくほどの美男美女の夫婦だったようです。

実は、この千姫の再婚には、ひと騒動ありました。千姫の救出をした坂崎直盛が、千姫が忠刻と再婚することを知り、その行列を襲い千姫を奪おうとする計画を立てたことが露見し、改易を恐れた家臣団が直盛を殺すという事件が起こったのです。

どうやら、千姫の救出を家康が命じた際、「救い出した者には千姫を与える」と言ったという噂があり、これを真に受けた直盛がその約束を反故にされたことを怒り、突発的に行動を起こそうとしたというのが実情のようです。

直盛自身は家臣を簡単に手討ちにするなどの粗暴さがあり、仮に家康の話が本当だったとしても、とても千姫に見合うような人物ではありませんでした。坂崎家は結果的に改易されてしまいます。


千姫の姿絵(写真:Alamy/アフロ)

家光、家綱にも信頼の厚かった千姫

千姫は、再婚した忠刻との間に1男女に恵まれました。しかし嫡男だった幸千代に続き、結婚から10年が経った1626年には夫の忠刻もこの世を去ります。


千姫は江戸に戻り、天樹院と名乗り娘と暮らしました。娘である勝姫が池田光政に嫁ぐと、その後は、家光の3男である綱重とその母である夏と暮らします。家光は姉である千姫を頼りにし、彼女が体調を崩すたびに見舞いにきたと言われているようです。

家光の代になるころには、千姫は大奥の最高顧問のような立場にあり、幕府においても大きな影響を与える存在でした。織田信長と徳川家康の血を引き、豊臣家の最後に立ち会った千姫は、思慮深く思いやりのある性格と、曲がったことは許さない頑固さが同居した魅力的な人物でした。

そんな彼女は1666年、江戸で死去します。享年70歳でした。

(眞邊 明人 : 脚本家、演出家)