天の川と流れ星と満天の星空(写真: 花火 / PIXTA)

浪人という選択を取る人が20年前と比べて1/2になっている現在。「浪人してでもこういう大学に行きたい」という人が減っている中で、浪人はどう人を変えるのでしょうか?また、浪人したことによってどんなことが起こるのでしょうか? 自身も9年の浪人生活を経て早稲田大学に合格した経験のある濱井正吾氏が、いろんな浪人経験者にインタビューをし、その道を選んでよかったことや頑張れた理由などを追求していきます。

今回は、鳥取西高等学校から1浪して東京大学理科I類に進学。東京大学大学院理学系研究科天文学専攻博士課程を修了後、ゴールドマン・サックス証券株式会社に入社し、1年間の勤務を経て、人工流れ星を開発する株式会社ALEを創業。現在同社の代表取締役社長を務める岡島礼奈さんにお話を伺いました。

小さい頃からの憧れを追究し続ける


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子どもの頃に抱いた夢を追い続けることの難しさは、大勢の大人が痛感していると思います。

今回お話を伺った岡島礼奈さんも、学生のときに宇宙への憧れを抱き、東京大学で天文学の勉強をする決意をしました。

彼女は浪人を経て、希望した学部学科・研究室に入り、現在は宇宙科学スタートアップの社長として、人工流れ星・人工衛星の開発・打ち上げに携わるなど、大人になってからもかつての夢を追い続けています。

小さい頃からの憧れを大人になっても追求し続ける岡島さんの人生と、浪人の経験はどのように重なっているのでしょうか。彼女の人生に迫っていきます。

岡島さんは、1979年2月、鳥取県鳥取市にサラリーマンの父親と、専業主婦の母親の間に生まれました。父親は日本専売公社(※現:日本たばこ産業株式会社)の卸売りをしている事業所で働いていました。

「食べるのに苦労した思い出はないのですが、都会と物価水準が違うので東大生の親の平均年収と比べると、半分以下くらいの水準だったと思います」

東京大学が実施する「2020年度学生生活実態調査」によると、東大生の親の42.5%が平均世帯年収1050万円以上だと言われます。950万円以上1050万円未満の家庭が11.4%であることも合わせると、約半数の東大生は年収1000万円以上の家庭で育ってきたと言えるでしょう。

そうした金銭的な格差がある中でも、幼少期から岡島さんは勉強に励んでいました。

「地元の公立小学校では1番に近い成績をとっていたので、人並みには勉強をしていたと思います。中学校も受験をさせてもらって、鳥取大学教育学部附属中学校(現:鳥取大学附属中学校)に行かせてもらいました」

宇宙との出会いにつながった1冊

小さい頃から勉強熱心だった岡島さん。中学2年生のときには、学習を続ける過程で今の仕事につながる書籍と出会います。

「『ホーキング、宇宙を語る』を読んで、宇宙に興味を持ちました。もともと、両親には幼少期によく海や山に連れていってもらったので、自然や生き物のことを扱う理科という科目が好きでした。その漠然とした興味が、この本を読んだことでより明確になったんです。本に書いてあったブラックホールの話やビッグバンの話を見て、自分たちが想像できないような、物理法則がまったく効かなくなる世界が世の中にあることに想像力を掻き立てて、宇宙のことをもっと知りたいと思ったんです」

「星取県」と呼ばれるほど、星が綺麗に見える自然豊かな鳥取県で育ったことから、もともと理系科目に興味・関心があった岡島さん。彼女はこの一冊との出会いをきっかけに、さらに勉強に熱を入れます。中学校が小・中一貫校であったため、高校受験をした岡島さんは、進学校である鳥取県立鳥取西高等学校に進学します。

「高校での成績はクラスで真ん中くらいでしたが、教科によっては赤点を取ってしまうこともありました。試験の点数が悪すぎて、席の後ろに立たされて、それをほかのクラスの人に見られて大爆笑されたこともありましたね(笑)」

苦手科目の成績は振るわなかったそうですが、得意な理系科目に関しては、テレビで相対性理論の特集を見ていたように、自分の興味に対する理解を日々深めていました。

東大への進学を目指した理由

高校2年生の夏休みには、自身の道を追い求めるための転機となる出来事もありました。それが高校生を集めて理科教育をするセミナー合宿への参加でした。

「ある日高校で、『数理の翼セミナー』と書かれた張り紙を見つけました。その内容を詳しく見てみたら、そのときに話をされる方が宇宙論を専門にしておられる先生だったんです。それで『絶対に行きたい』と思って応募して、そのセミナーが開催される茨城の筑波大学まで行きました。合宿自体、とても有意義だったのですが、そこでチューターでついてくださった東大生に質問をしたことをよく覚えています。

私が『なんで東大に行ったんですか?』と質問をしたら、その方が『勉強はどこの大学でもできるんだけど、もし研究するならその中でも資金を持っているところが強い。だから東大が一番いい環境だと思った』と言ってくださったんです。私も将来宇宙のことに関する研究をしたいと思っていたので、その言葉がきっかけで十分な研究費がある東大を目指そうと思いました」

こうして岡島さんは、本格的に受験勉強を開始します。


東京大学(撮影:梅谷秀司)

高校3年生になった岡島さんは、地元の塾であった数理研究会に通いながら、東京大学理科I類に向けて勉強を続けます。この年のセンター試験の結果は700/800点程度と、東大を目指すには悪くはない数字でした。

しかし、現役時の受験では残念ながら不合格になってしまいます。彼女は、落ちてしまった理由を「効率が悪かった」と分析しました。

「私の学校は中高一貫校ではないために、3年生になってようやく全カリキュラムが終わります。受験までの時間が限られていたのですが、その中での優先順位をうまく設定できませんでした。科目の勉強法自体も、この範囲の問題をなんとなくやっておけばいいという認識でしたし、模試の結果もC判定くらいを取れることもありましたが、多くはE判定でした」

「二次試験で求められる力が足りていなかったんです。合格する力があったのに本番に弱かったわけではなくて、もともと合格までに必要な実力がなかったんです

結局、この年は滑り止めであった早稲田大学の理工学部も落ちてしまったために「どこにも受かっていないから仕方なく」浪人を決意します。

こうして現役時の受験を不完全燃焼で終えた岡島さんは高校在学中から通っていた数理研究会に引き続き通うかたわら、ほかの高校での授業を受けるようになります。

「当時、鳥取県では浪人生を受け入れて、浪人生向けに授業を行ってくれる環境があったんです。それで、実家から歩いて30分のところにあった鳥取城北高校に行って、16時過ぎまで授業を受け、17時に帰宅してから3時間ほど家で勉強するという生活を送るようになりました」

この教育機関は『補習科』といいます。大手予備校が近くにない西日本の地方の地域で、普通科の高等学校が大手予備校よりも安い値段で浪人生を受け入れ、授業の面倒を見るという仕組みで、2010年ごろを境に鳥取県ではなくなりましたが、現在でも岡山県や島根県などで行われています。

この補習科による浪人の1年によって、岡島さんの頭の中がどんどん整理されていったと言います。

成長を感じられた浪人生活

「浪人の1年は、朝から晩まですべて勉強に時間を費やせる環境がありました。『今月は物理、次の月は化学』といったように自分で毎月強化する科目を決めて重点的に勉強していたので、まとまって知識をつけることができたと思います」

そのおかげで模試の結果はだいたいB〜A判定で安定したそうです。

「この1年で、自分の中でいろんな教科の考え方が完成されていきました。高校2年生ですべてのカリキュラムが終わる中高一貫校の人たちは高校3年生の最後の1年を演習に費やしますが、自分もそのような生活ができていたのだと思います」

成長を感じられた1年でした」と語る彼女は、センター試験の結果は前年度と変わらなかったものの、本質的な理解が必要となる東京大学理科I類の二次試験では、その積み重ねの成果を十分に発揮し、見事に合格しました。

「試験では力を出し切った感はありました。これでダメなら、来年どれだけやってもダメだと思い、悔いはなくなりましたね。とはいえ、合格発表の結果を知るのは怖かったので、自分では現地には行かず姉に見に行ってもらったんです。姉の連絡を待っていたら、友達から電話がかかってきて、『合格してたよ!おめでとう!』と言われました。

それでいったんホッとしたのですが、姉からも電話がかかってきて『(番号が)ない!ない!ない!』って言っていまして……。受かって嬉しいという気持ちがなくなって、不安になりました。後日、東京大学から合格通知が郵便で届いて初めて合格が分かったので、実感がわかなかったですね(笑)

後から姉は後期試験の合格者発表のほうを見ていたことが判明し、慌ただしい合格発表前後だったようですが、この1年の取り組みと結果には「スッキリした」と語るように、納得いくものだったようです。

焦らず着実にこなすことの大切さ

こうして1浪で東大に入学した岡島さん。

浪人してよかったことを聞いてみたところ、「自分で計画を立て、自分を律しながら頑張る姿勢が身についた」と答えてくださいました。また、頑張れた理由に関しては、「前年度に力を出し切れず悔しい思いをした」ということが大きかったそうです。

「この1年で、物事のメリハリをつけられるようになったと思います。夜遅くまで勉強をしてもよくないと思っていたので、その日の課題が終わっていなくても12時には寝るということを徹底しました。

われわれの時代は浪人をする同級生が多かったですし、田舎にいたから周囲(の受験生)をそんなに気にせずに、友達と一緒に勉強できたのはよかったですね。『浪人の友は一生の友』という言葉がありますが、同じ焦燥感・閉塞感を抱えた友達と一緒に勉強できたから、将来に対して抱く不安な気持ちが緩和されたのだと思います」

「当時できた友達は今でも仲良くしてくれています」と、一生ものの友人を浪人生活で作ることができた岡島さん。また、浪人を通して物事への取り組み方も変わったことがあったそうです。

「今思うと、当時まだ未熟な子どもであった私が大学入試に落ちたこと自体は、自分の人生の中ではそんなに大きな挫折ではないと思います。ですが、焦らず着実に目の前のことを1つひとつこなすことが大事なのだと浪人のタイミングでわかったことが、今の人生に大きく生きていると思います。たっぷりあった時間を、文学や哲学などの様々なジャンルの本を読んでインプットすることに費やせたのはとてもよかったですね」

大学入学後の岡島さんは学生起業をしつつ、理学部天文学科、大学院理学系研究科天文学専攻に進み博士号を獲得します。

その後はゴールドマン・サックス証券株式会社に入社し、1年間の勤務を経て宇宙科学スタートアップである株式会社ALEを2011年に創業し、現在代表取締役社長として、人工流れ星の開発や衛星の開発・研究に取り組んでいます。

3号機打ち上げを目指す

「2019年には人工衛星の初号機と2号機を打ち上げ、現在も3号機を打ち上げるための資金調達を頑張っています。いま、われわれが住む環境問題について、世界規模・地球全体で考えることが多くなりました。そういう意味でも宇宙の時代が到来しているからこそ、皆さんと宇宙産業を一緒に盛り上げていきたいと思います」

自然豊かな鳥取県で子どもの頃に抱いた宇宙への憧れ・探究心。大人になり、東京に来てからも当時の気持ちを忘れずに興味を突き詰めている岡島さんの視線は、はるかかなた、銀河の向こう側へと向いていました。

(濱井 正吾 : 教育系ライター)